「語り起こし」とかで未整理な感じがする本だった。また、後に述べるが滑り込みギリギリで惜しいタイミングの出版のような気もする。
テーマが少々散乱しているけれど、大きなテーマは2つ。それが副題になっている
1.キャラクター化する「私」と
2.イデオロギー化する「物語」という事だろう。

キャラクター化する「私」
近代に入って日本の文学は「私」を探してそれを確立しようとした。それまでの日本文化には「自我」が乏しく、自立(自律)した自我の目覚めが、そのまま近代の文学やら近代の日本文化の「物語」なのかもしれない。
近代に入って人々は「歴史」という縦糸と「地理」という横糸に「私」のアイデンティティー、文字通り立ち位置を探り、それを表出するために「言文一致体」という「文体」を探り当てた。
その「自我の確立」への要求は途中で「国家」というモノとの不幸な接続を経て、戦後民主主義に至る。(明治から一気に戦後まで一行で飛ぶと、なんか凄く眩暈が起きそう)
やがて構造化、脱構造化の文化状況の中で「私」とみなされていた「自我」は「属性」の集合体として捉えられる。大塚は触れなかったが田中康夫の「なんとなくクリスタル」というのは確かにエポックのような気がする。
「シャネラーな私」「オタクの僕」「憂国の自分」こんな感じで自己を同定していく、ちょうど「ピンキーストリート」のように各部のパーツを組み合わせて自己の「属性」を形成していく。
そういえば山本英夫の漫画「ホムンクルス」でも「記号の固まりの女子高生」ってのが今の題材だったな。
このように見ていくとインターネットというものがいよいよこの個人の属性の「データベース」を用意し、そこにのめり込むものに自我の肥大化を引き起こさせるのではないか。佐世保の同級生殺害事件を受けて大塚はこのように推測する。また、その少女が事件後「赤毛のアン」を読んだということを見て、現実感を取り戻させる為に近代的自我の再認識が必要なのではないかと訴える。再度、近代文学をやりなおすべきではないかという提案をしてみる。
また、このインターネットというツール、様々な人々がアクセス可能な言説空間と、そこで現実的な自我の再構築の為に。またはその「物語」を紡ぐ為に、近代の文学が「言文一致」を引き出したように新たな「文体」を模索しなければならないのではないかと問いかけている。
これがこの本の出版タイミングの悪いところで、というのも「電車男」というサンプルはこういった「文体」の萌芽なのではないかという気が自分にはする。*1

肥大化する自我というのは確かに気になる。*2blog に書き散らしている人達の中にも、あたかも自分が社会を動かしてやるんだという気概に溢れている方もいらっしゃるが、気をつけた方が良いかもしれない。大塚は「愚民」という言葉が一つのメルクマールであるとの指摘をしている。この言葉を使ったら自己の肥大化を再度チェックすべきだろう。*3

イデオロギー化する「物語」
所謂「大きな物語」の崩壊。大塚は「進化論的歴史観」みたいなものを捉えている。デカルト的な「要素還元主義」もこれに入るかもしれない。というか、デカルト的「要素還元主義」の歴史観への敷衍が「進化論的歴史観」とは言えないか?
「進化論的歴史観」の生きつく先が20世紀の壮大な社会的実験、「マルクス主義歴史観」になったわけで、ここにおいて「イデオロギー」というものが「大きな物語」を顕在化させたわけだ。「資本主義」というのはそういう意味で「イデオロギー」とはみなせない、社会主義ソビエトの崩壊というのは「マルクス主義」対「資本主義」のイデオロギーの闘争ではなく、「マルクス主義」という「大きな物語」の有効性の実験であり、その崩壊は「大きな物語」の崩壊を意味していたのではないかと捉える。
大きな物語」つまりは「イデオロギー」を失い、人々は別の「物語」を模索し始めている。ここに新たな「イデオロギー」としての「大きな物語」を提示しても人々を動員する力にはならないだろう。「社会民主主義」であるとか「環境保護」(「ガイア仮説」という物語かな?)もその到達距離は知れている。
この大空白時代に現れたトリックスターが、9.11以降のブッシュなのではないか。ブッシュが引き起こしている9.11以降のアフガニスタン及びイラクへの行動は「悪の枢軸」と闘う「空軍の戦闘服を着た敬虔なキリスト教徒の大統領」という「ハリウッド映画の文体」そのままのベタベタな*4ストーリーを追っている。その映画「インデペンデンスデイ」的な空気のままブッシュは再選を果たした。
こうなると理性的な「防衛的な先制攻撃なんて許されるものなのか?」とか「戦争の大義としてあった大量破壊兵器はどこにあるのか?」という声はかき消されてしまう。
日本においても「『拉致被害者の救出の為に北朝鮮に制裁攻撃を』って、おい、そんなコトしたら生きてるヒトも死んじゃうんじゃないの?」というツッコミは無効化される。

ベタはベタとして認識できる目が必要なのではないか。


*1:勿論、この「文体」とうのは表面的な言葉遣いだけではない。それは所謂「2ch語」であって、そうではなく「主人公」と複数の「名無し」という存在の混交が一つの「文体」を形成してはいないかという意味での「文体論」(!)のつもり

*2:非常に悲しい例というのが身近(これも現実社会という事ではなく、インターネットというメディアの中でという意味で)にある

*3:なんだか、「お前がな」といわれそうな気がするけど、わたしは衆愚批判はしていないつもりなんだよな。その昔「衆愚擁護」みたいなことはしたけど、ってこれが「肥大化した自己」だよな

*4:ドンドンドン、ベタで〜す、ドドンガドンベタで〜す。と、安田大サーカスの声で