商売その2

性犯罪前歴者の居住地、警察が把握できる制度新設へ(読売、ですが読売のサイトなど飛ばなくてもいいのでYahoo!へリンク)
性犯罪者の出所情報把握へ 警察庁方針(産経)

警察庁漆間巌長官は6日の記者会見で、奈良市の女児誘拐殺人事件に関連して性犯罪者の再犯防止策について「前歴者が服役後どこにいるか、警察署単位で把握できるシステムが必要だ」と述べ、法務省に情報提供などの協力を求める方針を明らかにした。
(略)
6日の国家公安委員会では、複数の委員から「性犯罪の前歴者の情報を住民にも公開すべきだ」との意見が出されたという。

国家公安委員会 委員会の開催状況(1月7日現在では該当する記載はまだない)

さてさて、ファナティックなことだ。
実際に今回の「奈良県女子児童誘拐殺害事件」では大阪府警が被疑者の情報を握っていたそうだ。そして一部報道機関はその資料を確認したという(つまり、情報漏洩があったということなんじゃないのか?どうせ気の良い「おまわりさん」が取材者に乗せられて見せちゃったんだろうけど、「おまわりさん」の法令遵守意識なんてこんなものだろう)

果たしてこの制度が性犯罪の抑止に繋がるのだろうか?
24時間行動監視でもするのならいざ知らず、性犯罪なんてのは2時間も目を離せば行われちゃうだろう。地域住民に知らせますか?電車にでも乗って隣町にでも行けば意味がないんじゃないのかね。

それよりも、ちゃんと更生を目指すに者にとって障害となるだけなんじゃないのだろうか。


性犯罪というのは視野狭窄であると思えるんだよな。性行動に違法合法はあるけど良いも悪いもないとは承知している。しかし、違法な性行動など行わなくても充分合法な範囲で「楽しむ」事はできるだろうに。
わたしにとっては「強姦」なんてのは金を積まれてもやろうって気にはならないけど、この世には「法律で禁止されなければ強姦したい」って国会議員の先生もいらっしゃることで。
肉体的ではない精神的な交歓としての性行動を教える(「教える」という言葉も変だな。「示唆する」かな)性教育なんてモノも必要なのかも知れないね。



(付記)
性犯罪者 -オタ切り裁判-

はっきり言って聞こえは悪いけど、はっきり書いて見栄えも悪いけど、
「オナニーライフの充実」みたいな自愛生活こそが
大人の人間にとって切実で大切な事だったりするわけで

上に書いたように相互交歓が性愛の核と思っていると「オナニーライフの充実」という発想はでてこなかったけど、こういう視点もあるんだなぁ、と。
(というか、多分一番引用されたくないところだけ引用してみたりして)



はてなの中でKLACK の件に言及しているサイトを巡回してみたんですが、いやはや凄いですね。擁護論など皆無と言っても良い。皆さん常識的なんだ。そんな中でちょっと興味深い文章があった。
<まこりんのつれづれなる日々 in はてな:2005-01-05 KLAC>

わたし達はアミューズメントパークのアトラクションのような安全であることが大前提のスリルを楽しみたいのであって、本当の危険なんて味わいたくない。ビジュアル系のスリルだってそれと同じ。

<+ 駝  鳥 + だ ち ょ う +:2005-01-04 アンチについて>

学校という権力(暴力)装置が相対的におとなしくなったうえ、学校以外の場所から多様で自足的な価値観を選び取れるような選択肢が増大したせいであると考えることができる。学校で反抗する必要がなくなったし、パブリックな空間で正面から自らの自律性を主張し、反抗するまでもなく、誰にも干渉されない、ないしは他者に気がつかれないプライベートな居心地のいいニッチをみつけて自足生活を営める可能性を多くの若者が見出したことによるのではないだろうか。
(略)
わざわざパブリックな場で失敗し非難されるような行動をとるのは愚か者であるとみなすような不寛容が生じてきたように思える。

見事に呼応しているように思える。
更にちょっと話しは飛ぶように思えるかもしれないが。
<奥村弁護士の見解:2005-01-06「小児性愛と子どもへの性暴力」をテーマにしたウェブサイト>
経由で、
小児性愛と子どもへの性暴力について考えるサイト

なぜ小児性愛、ロリコンがだめなのか?「昔は小中学生くらいの年齢でも結婚してたじゃないか」

わたしの以前の発言に対する反論ともいえる。確かに第二次性徴を過ぎた者に対して性行動を行う事が歴史的、生物学的に許されてはいても、現代においては許されないこととされ、更に法によって規制もされているのだということは理解できる。その法であるとか社会的な常識が現在の社会を守る上で必要な要件であることも理解できる。しかし、それら児童への性行動を抑制する社会的な要請なるものが一方では女性の出産年齢を押し上げているとも言えるのではないだろうか。これには社会的、経済的要因が様々に絡み合っているのだろうが生物学的(つまり医学的)に望ましいとはいえない危険を、出産する女性に要求している社会条件なるものが方やにおいて児童の性行動を抑制しているとはいえないだろうか。
「昔のルールは昔のルール、現代のルールは現代のルール」であることは理解できる。しかし、その「現代のルール」が常に正しいというわけではない。

話しは戻って KLACK の件になるわけだが。ロックが社会の価値観を紊乱し、その母胎を食い破ることなく「アミューズメントパークのアトラクション」でよいというのは、社会の中で「居心地のいいニッチをみつけて自足生活」を営もうとするからだろう。その中で「安全であることが大前提のスリルを楽しみたいのであって、本当の危険なんて味わいたくない」のだろう。つまり社会などどうなっても良いのだろうし「わざわざパブリックな場で失敗し非難されるような行動をとるのは愚か者である」と思えてしまうのだろう。
Like a Rolling Stone.
転がる石のように激しく周りとぶつかる在り様は既に否定され、静かに川底にたたずみ苔むす在り方が由とされるのだろうか。