楢山節考

昨日と一昨日の話しの続き。

ヒトはなぜ働くのだろう。生活の為、将来の安定の為。または自己実現

結局のところ「生きていくため」だろう。そして生きていくためには社会から己が生きていく糧を得る必要がある。その最も効率的でコストのかからない方法が労働であるのだろうし、その為のツール(道具)が企業(またはお役所でも良いだろうし、各種団体でもいい)ってもんだろう。

年功序列」であろうと「成果主義」であろうと「お約束」された利益が得られればヒトはその「お約束」を信じようと言う気になるのだろうし、「お約束」が果たされなければ信頼は崩れる。

それまで「年功序列」を標榜していた企業が突然「成果主義」になれば「年功序列」を支えてきた元若手、つまりいままで収奪されてこれから「年功序列」の旨みを享受しようとしてきたミドルに不満が巻き起こるのは理の当然といえる。

また、「成果主義」というのは聞こえは良いし、実際には私企業と言うのは最終的にロットでみると「成果主義」以外の何物でもないわけなんだけどこれも本当に導入するとなると恐ろしい事になる。

所謂、IT産業と呼ばれる分野では「35歳定年制」という言葉があった(まだある)つまり35歳を過ぎると既に産業に従事できなくなるという傾向をあらわしている。実際に生産性を精査に見ていくと35歳近辺をピークに下り坂を描く以外にない。

と、なると、きちんとした「成果主義」をここに当てはめると35歳をピークに短期的な収入しか得られないという産業になる。
実はこのような傾向はIT産業だけではないだろう。この産業において個々人の「生産性」は様々議論はあるだろうが比較的計測しやすい。またその為のツール類、計測根拠も様々に開発されてきた(笑ってしまうんだが、こういった根拠だとかツールの開発に最も熱心だったのが件のF社であったようにも思う。わたしは懐疑的なんだがI社とF社の計測根拠はあたかもマグナカルタのように、暴力的な権威を持ってしまっている)。

他の産業において、例えば運輸であるとか各種生産産業においてもやはり肉体的な条件というのは大きい。それらをつぶさに精査してしまえば35歳ピーク説というのは広い一般性を持ってしまうだろう。

では、冷酷に。もっと抑えて表現するならば、生産性に準じて個々人に収入を配分するとすると。
勿論、生産性というのは本来個々人が社会に与える付加価値のことであって、各個人が社会に付加価値を与えるのであれば、その付加価値に準じた収入を得るのは至極当然のことのように思えるのだが、ではそのようにしたとして。この社会は動いていくだろうか。

35歳までは良いだろう。それ以降下り坂が見えてきて果たして心安らかに居られるものだろうか。

コンサルタントなんてものは総じて無責任なものなんだけど。

キャリアに悩む人に対して『5年後、10年後の自分の姿を想像して今の自分の能力をたな卸しし、足りないものを一つ一つ埋めていけばいい』とアドバイスしていたが、今は5年後すらどうなるか分からず、将来像は描きにくい

とはまた、その無責任も極まれりという感がある。
そして

解決策は、とにかく一歩進んでみることだ

つまり「目を瞑れ」と言っているに等しい。

キャリアを極めた人に何人もインタビューしたが、はじめからビジョンや目標があった人はまずいない。やりたいことを、がむしゃらに頑張ってきたら、知らない間に今の位置にたどり着いていたという人がほとんど

逆なんだな。ビジョンや目標はおいておこう。しかし、「やりたいことを、がむしゃらに頑張ってきたら」必ず「キャリアを極めた人」になれるのだろうか。そして明るい未来、つまりより良い収入なり地位なりが手に入るのだろうか。
そうは限らない。「やりたいことを、がむしゃらに頑張ってきたら」そのOSなり言語なりノウハウが陳腐化し、市場性を失い切り捨てられるように見向きもされなくなったヒトは居ないのだろうか。

わたしには楢山節が聞こえてくる。