アニミズム再考

dokusha2004-07-27


直木賞を受賞した熊谷達也の『邂逅の森』(ISBN:4163225706)を読んだ。大正期の東北のマタギを題材に近代化が進む日本を舞台に、破壊されていく自然を捉えることで、自然とはなにかを、または自然と人間との関係を描き出しているように思えた。ずしりとした読後感のある良い作品でした。ぜひ谷口ジローに劇画化をと言えば大体判っていただけそうな気がします。というか、ぜひ→文藝春秋
わたしは所謂「エコ贔屓」のヒトではない。どちらかというとそういったスタンスには叛旗を翻す性質なわけです。人間が「自然保護」なんていうのはおこがましいにも程がある。本当に自然と言うヤツに対峙した事があれば、自然なんて保護だの好きだのと言ってなんか居られない恐ろしくも強大なものであると思える。まあ、では自分がどの程度自然と対峙したかといえば、少々心許ないのですが、それでも何度かは運が悪ければ死んだと言うような目には遭っている。なので「自然=素晴らしい」という短絡的な思考には付いて行けません。
しかし、熊谷はその辺りはちゃんと押さえていますね。

昨日、わたしは「生きるべきを生き、死ぬべきを受け入れる」ということを言いました。
「人間は半分は親から生を受け、あとの半分は山の神様から生を受けている」と語る熊谷の描くマタギは、己の生を山の神との関係において捉えており、そこには「山の神」に象徴される自然に対する畏敬の念が刻みこまれており、自然と接合した死生観があると思うのです。
ここでは「山の神」はあくまで己を包みこむ環境であって、人間がコントロールし得る存在ではない。その意思は人間の手の届くところにはない。「山の神」がどのような思考を辿ってか、自分自身の死を定めれば、それを慫慂として受け入れるしかない。そのような諦念が流れています。
そもそもアニミズムとはこのような人間を取巻く、山、海、火、水、天候、それらすべてをあるがままに受け入れると言う考え方だったのではないかと思えるのです。このような「神→人間」という敬虔さは、開かれている心と捉えることができるだろうと思えます。ところがここに「人間→神」という回路を開いてしまった。ここからアニミズムの、そして日本の「神概念」の過ち、そして暴走が起きたのではないかと推測します。
即ち、贄を捧げて神をコントロールするというアイディア、人間社会の小賢しい価値観を神に投射して神を、つまりは自然を理解しようとする誤り。まじない、うらない、払い。これらすべてはそもそものアニミズム、「神→人間」という事実からは遊離した仮説、または妄想にしか過ぎません。そして挙句の果てに「神」にまで序列を設けて一元管理をしようとした明治政府(その走狗たる「明治神宮」)。ここには自然に対する人間の敬虔な畏れはありません。
当時、19世紀。西欧文明は人間の自然に対するコントロールと完全な支配を信じていました。そこにあったドグマは一神教から導き出される「真実は一つ」という狂信と、その狂信を後押しする「要素還元主義」という手法でした。このドグマに支配された日本は、「神」を一つに糾合し、挙句に「現人神」なる化け物まで模造するに至りました。また、「要素還元主義」はその要素に還元され得ないものを、後進性、土俗的と破棄して行ったのです。ここから感じられるのは、人間の思いあがりでしかありません。
唐突なようですが、『大学』を引くならば(id:dokusha:20040714#p1)、「格物、致知」のレベルで既に「物事をあるがままに見る」事ができなくなっていたわけです。そうであるならば、そこにいくら「修身」を乗せても「治国、平天下」は望むべくもありません。
即ち、本来のアニミズムとは、古来よりの日本の伝統的な知恵とは、人間を取巻く環境、自然をあるがままに見つめ、それを受け入れる。そのような姿だったのではないでしょうか。
これはなにも自然に対する「敗北」ではありません。ヒトは自然から常に己の「獲物」を獲得しなければなりません。そうしなければ生きてはいけません。しかし、だからといってそのリソースをそもそももたらしているのは自然であり、それを忘れてしまっては存在も危ういという事なのです。

更に付言する必要があります。「以上のように考えるならば、自然と共生する必要があるのか。この文明は全くの誤りなのか」という短絡にも組し得ません。人間は牙を持たない代わりに刃物を持つようになりました。火をコントロールする術を持っています。今すべての文明を否定しようとも、その持つ刃物=鉄。は文明の産物でしょう。己一人だけ文明を否定したつもりになっても、全く文明から離脱する事は現実的にはできません。(現実を謙虚に受け入れる事からはじめるべきです)つまり、この文明が果たす自然への影響を見つめる目が必要なのでしょう。
更にこうも言えます。わたしたちに猟場はないでしょうか。わたしにとってはこの文明国家自体が自分を取巻く環境であるだろうし、ある意味ではこの非自然的なインターネットの世界ですら自分を取巻く環境であるわけです。八百万の神はこのネットの中にも居るのかもしれません*1。「山の神」が教えてくれる事。アニミズムがわたしに語る事は、「自分自身を取巻く環境を良く見、その音を聞き、その与えるものを良くも悪くも受け入る」という敬虔な態度なのではないでしょうか。つまり「生きるべきを生き、死ぬべきを受け入れる」という当たり前の事実からはじめる事なのでしょう。


*1:はい、そこで「神」だの「降臨」だの壷臭い事言ってるヒト、壷に帰れ