安心のファシズム― 支配されたがる人びと ―

安心のファシズム


斎藤貴男岩波新書から『安心のファシズム― 支配されたがる人びと ―』(ISBN:4004308976)という本を上梓した。早速買って読んでみた。「イラク人質事件」における人質バッシングから説き起こし、自動改札機と携帯電話の高機能化による「つながる安心」を描く。一見この両者は無関係のように見えるが、人質は「国益」「国(正確には政権)の意思」と「つながっていない」からバッシングを受けたのではないかという視点を据えてみると、確かに気持ちの悪いほど両者に通底するものが見えてくる。
更に、「心のノート」、監視カメラ、社会ダーウィニズム服従の論理を説き起こし、この社会が「安心のファシズム」に向かおうとしているのではないかと問題を提起する。この問題意識はわたしに非常に近い。
わたしも以前に「セキュアな社会なんぞ望むべくもない、セキュアな社会を望む事が却って社会を閉塞させる」というような事を書いた。その心性が、国家という物と、それへの従属を望む、従属競争に駆り立てられる個人という関係を据えてみると非常にすっきりと理解ができそうだ。
つまりこういう事だ。今、この社会は「グローバリゼーション」と呼ばれているような「新自由主義経済」の元に置かれている。そこでは競争が推奨され、競争によってもたらされる生産性の向上、利益、資源の有効利用、自然環境の保護が至上の価値とされる。人々はこの競争に絶えず晒されつづけ、その競争に勝ち残る事を要求される。
ヒトはこの経済原理、競争原理の中で計量化され比較される。
この原理の元ではより社会的にマッチングを果たした者が「勝ち組」とされ、他のものは切り捨てられる。「勝ち組」とされた者も安閑とはしていられない。競争は常に続く。
人間にとってこれほどの疎外はない。ヒトがヒトとして見られずに、問題とされるのは常にそのヒトの属性である。その原理の中でヒトは疎外感を募らせる。その疎外感がまた社会への、国家への従属を加速させる。
このような原理を内面化した者にとっては「犯罪者」「何を考えているか判らない若者」「外国人」は排除の対象でしかない。そして「イラク人質事件」の人質もまた排除の対象となるのだ。

そもそも人間は様々な価値観を持つ。この価値観の多様性が人間の集団を決定的な破滅から救う。例えば、先の大戦において本当に一億の日本人全てが「一億玉砕火の玉だ」と頭から信じて疑わず、本土決戦を果たしていたら、この日本は果たしでどうなっていたか。バブル期にも土地取引に狂奔した銀行、デベロッパーは弾け飛んだ。そんな中にも「浮利を追わず」節度を持った銀行、デベロッパーも少々は残り、産業の総倒れは防がれた。環境というものは常に変化する物であるから、その環境の中に存在する者達は多様性を模索し、全体としての生き残りを図らなければならない。であるならば、一見「価値の無い」とみなされる者でも、全体はその存在を許容すべきなのだ(id:dokusha:20040720)。

しかし、今「グローバリゼーション」と呼ばれる米国の価値観は、ほとんど無謬かと思わせるほどの力と成果を見せている。この力の前に小泉政権は完全に膝を屈した格好になっている。そこでは先の大戦、それ以前から営々と築き上げてきた人類の知恵である「防衛の為の先制攻撃などしてはならない」という簡単な原理すら忘れ去られている。

小泉がこの強力な米国の政権に縋り付き、自民党はこの小泉の人気に縋り付く。更に公明党がこれに縋り付き*1めでたく自公安定政権の出来上がりとなる。
ここに行政機構、官僚組織が縋り付き、猪瀬みたいな者まで縋り付く、銀行、デベロッパー、更にその下請けも縋り付く。学生は学生で大企業に縋り付こうとし、どんどんこの「勝ち組」の輪は大きくなる。この輪に入りきらなかった者は「自己責任」と切り捨てられておしまいである。
そこにあるのは不寛容と恐怖。そしてそれを起点とした絶え間ない競争の連鎖であり、そこで疎外された個人は次々と縋り付く先を探して「つながる」安心を求める。

これはドストエフスキーの描いた世界だ。審問官は次のように言う。

パンさえ与えれば、人間は足元にひざまつく。(中略)人間にとって、良心の自由ほど魅惑的なものはないけど、これほど苦しいものもない。いくじのない彼等をとりこにしておくには、奇跡と神秘と強権しかないのだ。お前は人間をあまり買いかぶり過ぎていた。人間はやはり奴隷に過ぎない。人間はお前が考えたよりも、はるかに弱く、卑劣に作られている。我々は人間の無力を察して、その重荷を減らしてやった。人間は自分の自由を捨てて我々に服従して来たとき、はじめて幸福になった。我々は彼等が自分で獲たパンを取り上げて、再び彼等に分配してやるとき、彼等が喜ぶのは、パンそのものより、むしろ我々の手からそれを受けることなのだ。永久に服従することがどんな意味を持っているか、彼等は理解し過ぎるほどに、理解している。我々は彼等に労働を強いるけど、我々は彼等を愛し、許してやる。恐ろしい苦痛からのがれ、彼等は楽しく服従している。これで良いではないか。(カラマーゾフの兄弟より)

荒野に一人立つ、そして誰でもなく自分自身の自分への評価を信ずる。そして生きるべきを生き、死ぬべきを受け入れる。いたずらな安全を求めることなく、生の特異性を感じ、日々を生きる。
パンを「貰う」事に頭を下げるな。それはそもそも自分自身が彼らに与えた物なのだから。


斎藤貴男が表題に「ファシズム」とした理由がウンベルト・エーコの『永遠のファシズム』にあったらしい。エーコがここで上げている「ファシズム」のポイントを列挙してみる。
(1)伝統崇拝
(2)モダニズムの拒絶
(3)非合理主義、行動のための行動の崇拝
(4)批判の拒否
(5)差異の恐怖の利用
(6)個人や社会の欲求不満から出発する
(7)同じ国に生まれたという事実の強調、ナショナリズム
(8)敵を過度に強く描き、過度に弱く描く
(9)闘争のために生がある
(10)エリート主義と弱者の蔑視
(11)一人一人が英雄になるという教育
(12)マチズモ(男性優位主義)
(13)質的なポピュリズム
(14)ニュースピーチ(新言語)の利用

個々の詳細はエーコか斎藤の叙述を当たってみて欲しい。
特に(8)に描かれたようなありようは「北朝鮮」問題にみる世論に近い。果たして「北朝鮮」は飢餓の狂信国家なのか、危険な隣人なのか。さっぱり戦略的な位置付けが見られない論調は、この(8)に束縛されているからとみなせば理解できる。
つまり、「北朝鮮問題」とは日本が始めて攻撃的な外交を見せている場などではなく、単なる「国内問題」なのである。


追記:
あ、本書には、これ明確な問題というのがあった。斎藤は「小泉レイプ裁判」をチラッと取り上げているが、これは問題がある。
憎まれ愚痴「木村愛二
http://www.jca.apc.org/~altmedka/
小泉怪文書訴訟(小泉レイプ疑惑訴訟) の要点のテンプレート
http://yasz.hp.infoseek.co.jp/log2/kaibunsyo.htm


*1:最近では小泉まで逆に公明党創価学会に縋り付き、この両者は相思相愛であるようだが