目的の為の組織、組織のための目的

dokusha2004-07-16


先ず押さえておくべき前提がある。それは「どのような組織であっても無謬ではいられない」ということだ。組織は最初、何かの目的の為に生み出される。しかし組織が生まれた瞬間から、その目的は二次的なものとなり、組織は組織を維持するための存在となる。この時、その組織の構成員は少なからず組織にスポイルされて行く。しかし、もともと人間には自分の存在をスポイルされるように望むという側面もあるのも事実で。そのようなヒトにとって、組織はいよいよ己の存在意義となり、そのような者が組織を構成していくと他の構成員の存在意義までも組織に従属させる事を願う。そしてそれがあたかも正しいかのように思われてしまう。
ちょっと話しは脇にそれるが、今回の参議院選挙において、自民党の敗北は肯定的に捉えるものの、かといって民主党へも信頼をおけないという声を聞いた。これには様々な論点があるだろうが、わたしは最大のプライオリティーに「政権交代を国民が選択できる事」を据えたいと思う。その為には国会に自民、民主という二つの政党が存在する事が最も現実的な選択であると考える。そしてお互いに政権を担い、国民に対し政権運営の説明責任を果たすべきだと考える。説明責任を果たし得ない者は政権から引き摺り下ろせば良い。
わたしは今、明確に小泉自民党政権に否定的であるが、近い将来民主党が政権を取った時には、その政権も今と同じスタンスで検証作業をする事だろう。
常に批判に晒される事。これが唯一、組織をなんとか健全に保つよすがなのである。
話しを戻す。
組織によっては、その存在が「無い方が良い」組織というものがある。
消防組織も、そもそも火事やら災害がなくなり必要無くなれば社会はどんなにか良いことだろう。警察もそうだろうし、軍隊にしてもそうだ。これらの組織は、究極的には自己否定が組織の目的であるべきだろう。しかし、ここで「組織の自己保身」という非合目的的な現象が起きる。オウム事件を契機に、その対象を拡大した公安警察の存在などはその一例だろ。また、機能不全に陥っている社会保険庁であるとか、コストがかかりすぎる雇用促進事業団なども、自己保身自体が組織の目的となっていると断じるに充分だろう。
魚住昭が『野中広務 差別と権力』(ISBN:4062123444)を上梓した。
小沢一郎田中派竹下派)分離、森内閣の成立、自民党公明党創価学会)の連立。それら政変の中で着実に権力を握ったのは、町議からのし上がった野中であり、彼の力の源泉は何であったのか。魚住は丁寧にその足跡を踏破している。そして「融和」というドグマを浮き出させてもいる。この「融和」という話題は、それだけで一つの稿を為すに十分なテーマであり、ここではこれ以上触れない。
一つだけ回り道をするならば、わたしがビジネスをする時に、あるヒトから貰った言葉をヒントにしておきたい。そのヒトは言った。「水でも電気でも良い。そこに高低の差があればポテンシャルというものが生まれる。しかしそれだけではダイナミズムとはならない。高いところと低いところを繋ぐ事、水ならば水路を繋ぐ事、電気ならば回路を繋ぐ事。そうやって初めて水が流れ、電気が流れて力が生まれる」野中の力の源泉はこの繋ぐ事にあったのではないだろうかと思える。その姿が、低きから見れば高く、高くから見れば低きに見え、批判も巻き起こした。しかし、彼が「繋ぐ事」に懸命に成ったその背景に「橋の無い川」に橋を架けようとした彼の出自にあったであろう事も想像に難くない。

一九八二年(昭和五十七年)三月、京都市京都会館(旧岡崎公会堂)で全国水平社創立六〇周年記念集会が開かれたときだった。
来賓として壇上に立った京都府副知事の野中はこう挨拶した。
「全水創立から六十年ののち、部落解放のために集会を開かなければならない今日の悲しい現実を行政の一端をあずかる一人として心からおわびします。私ごとですが、私も部落に生まれた一人です。私は部落民をダシにして利権あさりをしてみたり、あるいはそれによって政党の組織拡大の手段に使う人を憎みます。そういう運動を続けているかぎり、部落解放は閉ざされ、差別の再生産が繰り返されていくのであります。六十年後に再びここで集会を開くことがないよう京都府政は部落解放同盟と力を合わせて、部落解放の道を進むことを厳粛にお誓いします」
(同書:p.321、強調は引用者)