教育改革

dokusha2004-07-14


小泉改革が狙っているものに憲法の改正と同時に教育改革というものがある。ありがたいことに主要な論点が「愛国心」という馬鹿馬鹿しいものになっているが為に、公明党(つまりは、創価学会)の頚木を架せられた今の小泉政権ではこの教育改革は足踏みをしている。この辺の「読めなさ加減」もさすがサメの脳みそ森元総理ということで微笑ましい。
この「教育改革」が実際にはどういうことになるかは、現在東京都によって進められている「教育改革」を見るとある程度のアタリが付くのかもしれない。
東京都の「教育改革」―石原都政でいま、何が起こっているか 岩波ブックレット(ISBN:4000093134)

ブックレットの構成は、主に3っつある。
1)都が進めている都立大学の改革に対する問題点
様々に問題はあるのだろうが、明確におかしな部分として、(A)それまでの議論を無視するトップダウンの進め方。(B)「同意書」といわれる、情報を隠蔽することを強制させる態度。
これできな臭いのは、一橋総研(「新東京都立大学」システムへの提言)と河合塾の関与というものだろう*1
わたしらしくぶっ飛んで飛躍したことを言うならば、教育とは「国家百年の計」であるべきで、それを己の知り合いの商売の為に利用するとは、石原の醜悪さが際立つ。
この問題に関しては、
新大学設立準備体制の速やかな再構築を求める 東京都立大学総長 茂木俊彦(http://www.metro-u.ac.jp/president_s.htm)
首都圏ネットワーク (http://www.shutoken-net.jp/)
なども参考になる。
2)都立高校の問題
この問題に関しては、わたしはこのブックレットとは意見を異とする。都立高校は学区などを廃止し、各校が特色を持ち様々なニーズに応えようとしているらしい。そこでは「進学校化」も起きるだろうし、逆に「落ちこぼれの受け皿校化」も起きるだろう。それはそれぞれのニーズであって、それを準備しようということならば、それは良い事なんじゃないだろうか。いままでのように平均的で、そして総倒れという事よりは、最初からハッキリと「この学校は人間教育なんぞ致しません、ただ、受験の為の教育を施します」ぐらい割り切ってくれた方がわかりやすい(そんな環境でも、ちゃんと人間関係やら社会を見つめる中で人間教育なんぞ「施され」なくても理解してくるやつは理解してくる)。また、「自分を『数字』なんかではなく、呼吸をしている一個の人間として扱ってほしい」(p.42)というヤツには、このような各校の特色化を進めた方が、そういう学校も存在しうるんじゃないんだろうか。そもそも高校生はどのような制度にしても阻害を感じるヤツは感じるだろう。尾崎豊の「卒業」はもう何年前の歌なんだ?今の制度<だけ>が悪い。という主張には説得力が無い。
また、興味深い制度として「自己PRカード」というものも有るそうだ。
「都教委は都立高校入学者選抜実施要項で『調査書の機能を補完する意味で受験者本人による志望理由書(自己PRカード)を作成させる。自己PRカードでは、「(受験する)学校の特色に基づく期待する生徒の姿」等を参考にし、入学を希望する理由を記述させる』」という姿を「(生徒が)自己を『商品化』している姿を見るようで辛い」(p.46)と描いている。
え〜、おふざけになっちゃあいけない。高校受験において「全人格的評価」なんぞ出来ようが無い。どうしたって生徒の人格の一部を捉えて評価する以外に道は無い。生徒にしたって高校受験程度で自分の人格がすべて否定されたなんて思っちゃいないだろうし、思わせてもいけない。受験に失敗したとは、たまたまその生徒と希望校の間でアンマッチがあったにすぎないだろう。
そもそも、人間というのは常に人格の一部を社会にアピールして「自己を『商品化』せざるを得ない」存在だろう。ある時は「時給980円」で、そしてある時は「年収1200万円社保完備」で、自分を社会に売りこまなければならない。もちろん、だからといってそれが全人格的な評価などではない。
であるならば、「自己PRカード」を生徒が書くとは、多分、初めて社会的に、客観的に自分を捉え、見つめ、評価し直すいい機会なのではないだろうか。また自分から見た社会に何を求めるのか、考え直す機会であるかもしれない。
それを「商品化」が「辛い」などという甘ったれたメンタリティーは、自分自身を社会的価値という視点から見つめてみた事の無い「公務員」的な甘えでしかないと断ずる。
こんな甘ったれた態度、つまり「人間形成」などという漠然とした目標を掲げて社会性を喪失させるよりは、明確に「君たちは、社会において一定の機能単位として自分を商品化し、そして売り、その金で生きていかなければならない」と現実を見せてやった方が良いのではないか。
3)国旗・国歌の取り扱いという問題
もうこれに付いては良いだろう。こんなファナティックで馬鹿ばかしい事が本当に何時までも続くなどとは思えない。思いたくも無い。
これを読んで一つ思いついたことがある。題して「鳥肌実メソッド」
都教委は音楽教師にピアノの生伴奏をさせる事がお好きのようだ。音楽的に言って、さして良い出来でもない「君が代」を伴奏する事は苦痛かもしれんが、ならば、ありとあらゆるテクニックを駆使して「音を詰めて」やったらどうだろうか。まるで「軍艦マーチ」のように。なんなら前奏を5分程度付けたりして。なんのカンの言われたら「わたしは国歌としての君が代を尊重する意味で、より芸術的にしたかったのです」と答えりゃ良いじゃない。
更に、今はこの実施に当たって、式の際なんでも校長やら教頭やら、それに都教委の職員まで動員して教職員を監視しているそうだね。危ないヤツなんかはそういう監視役を周りに配して圧力をかけるとか。非常に「教育的」で「文化的」な情景だね。
まあ、わたしがそんな立場になったら間違い無く「鳥肌実」になりますな。どうするか?起立しますよ。全弾打ちつくしですよ。そして声が張り裂けんばかりに歌いますね。「君が代は」ですよ。畏れ多くも賢くも、大君の代を願うのですから。もうここらアタリで涙のひとつも流しましょう。「千代に八千代に」ですよ。「さざれいしの」ですよ、更に「いわおとなりて」ですよ。もう、このアタリはシャウト、シャウト!「こけ」は決めですね。「の」あたりは完全に声が裏に入っているでしょうね。「むすまで」もう、伴奏など耳に入りませんね。そしてそんな伴奏が終わっていようがまだまだ全然残っていようが、関係などありません。そして最後に「天皇陛下、万歳!」ですよ、もう。これでしめるしかないでしょう。どうですかこれ。

どうですかといわれてもね。

なんにせよ、だ。米国の対イラク戦において、開戦時にイラク大量破壊兵器が無い、または少なくとも、それの存在が確実であるなどとは言えないって事は既に明確になったわけだ。にもかかわらず小泉は自らのメールマガジンで「この問題の核心は、イラクが自ら保有する大量破壊兵器生物兵器化学兵器を廃棄しようとしないこと」と存在を頭から信たわけだな。これは外務省なり、情報をもたらした者たちが「事実を得る事が出来なかった」か小泉自体が「事実を理解する事が出来なかったか」ということに成る。
そして、それを指摘されると「フセインが捕まっていないから、フセインが居なかったとは言えない」という小学生のような(または、懐かしい表現を使うと「上祐のような」)屁理屈を国会審議という場で振りまわすわけね(昔なら審議止まるんだろうに)。
ここまで来ると完全に「バカの壁」状態だよな。
教育というものを考える時に、小泉だの森でもわかりやすいように「修身」という論理を引っ張ってきて見ましょうか。この「修身」というのは、儒教*2の中の八条目から取られた言葉になる。これを並べると「格物、致知、誠意、正心、修身、斉家、治国、平天下」となるわけだ。物事をありのままに見、ありのままに知る。意思を一時のてらいや誤魔化しで曲げず、自分の本当の所に寄せ、心に偽り無く過ごす。そして、身を律っすれば自ずと、家庭が円満となる。そんな家庭が増えれば国は治まってゆき、天下も安寧となる。まあ、徳治主義の「おまじない」だね。ところが最近の○カオヤジどもは、この言葉も聞きかじりでね(ワタナベ何某もそうだったけど)「「格物、致知、誠意、正心」をすっ飛ばして「修身」以降しか記述しなかったりする。
「修身」の、つまり「教育」の一番大切な基本は、「物事をありのまま、素直に見つめる」という事だろう。それが「事実」に少しでも近づく第一歩ではないの。
それができない首相が、いったい「教育」に何を言おうというのだろうか。


*1:河合塾の関与自体が問題だといいたいのではない、それを今までの議論に当てるということなら野心的な試みともとれるのだろうが、そうではなく他に具体的なカリキュラム策定が出来なかったからなのではないかとも思われる都側の姿勢じゃないだろうか。

*2:朱子学ね、「大学」ですは