国の有限なリソースに対する権限と責任

上の例でも判るように、本来「有限な国のリソース」をどのように配分するかという「権限と責任」は「国権」にある。というか、字義通り、この国の権利を持つから「国権」と呼ばれる。「国権」は集中の排除として「立法」「司法」「行政」という形で3つに分割され、それぞれ国会、裁判所、省庁が「権限と責任」を負うこととされている。この程度は中学生でも判る議論だろう。
これら「国権」を持つ各機関が「有限な国のリソース」をコントロールし、配分する。国民には直接の責任も直接の権限も求められもしなければ与えられもしない。逆に、国民は際限なくこの「国の有限なリソース」を己の為に使うよう求める必要がある。遠慮する必要はない。たとえ一人だけの要求であろうとも、時にそれは立法の不備、司法の問題、行政の誤りを正す契機となる。最近の例でいえば警察の「事件認知」に一石を投じた「桶川女子大生ストーカー殺人事件」であるとか、飲酒運転に再考を求めた「高速道路上の飲酒暴走トラック」の事件。また薬害エイズ問題もそうであろうし、更に北朝鮮拉致事件もそのような経緯を経てきている。
もちろん、全ての要求が正当なものであるとは限らない。最終的には「権限と責任」を持った「国権」が受け入れるか受け入れないかを決定すれば良い。
山形の立論が決定的に誤っているのは、この「権限と責任」。つまり、本来責任を持ったものに対する検討が一切なく、さも国民の側に「権限と責任」が有るかのように描かれているところにある。彼の取り上げた「イラク人質事件」においても、彼の訴えたい「有限な国のリソースの有効活用」を検討するならば、それは外務省の行動とその効果に向けられるべきだろう。