論理のすり替え

石原慎太郎東京都知事・記者会見 2004年3月26日

読売新聞・イシカワ氏
読売新聞のイシカワと申します。国歌斉唱の問題の件なんですけれども(略)
石原都知事
決めたルールだからね。内心自由みたいなこと言ってるらしいけども、内心、みん な自由は持ってるでしょう。ただ、民主主義ってのは、多少自分が不服でも、決めた ことは従おうというのがルールだし、(略)
先生も内心自由はあるでしょう。しかし、教育者として、国なり都なり、周りが決めた ルールってものは遵守してもらわないと。守るっていうことそのものが教育になるん だからね。イデオロギーっていうのは、みんなそれぞれ持ってるだろうけど、それぞ れの価値観ってものが違うといったって、一概に教職員としてそれを拒否すること は、私は好ましくないと思いますな。

皆で決めたことならば、それに従おう?
そもそも「国旗・国歌法」など「皆で決めたこと」というに値する程の議論が尽くされただろうか。実際にこの法律では国旗は日の丸、国歌は君が代であるという形式を決めたに過ぎず、それへの扱いをどうするかまでは一切触れられていない。触れられなかったのだ。それは国会審議の際に「強制は一切しない」という答弁にも現れている。
そもそも「ルールであるから守りましょう」などというのは民主主義のルールでもなんでもない。ファシズムであろうと共産主義であろうと、法治を建前としている国であれば「ルールを守る」事に変わりはない。逆に民主主義であるならば、マイノリティへの理解と思想信条、良心の自由を重んじられねばならない。一人一人の思想的自由、内心の自由までも踏みにじる姿は、民主主義のそれではなく、ファシズム共産主義のそれに近い。
テレビ、雑誌などの論説。更にこういったインターネットなどに溢れる意見でも「そんなに教師として子供に日の丸を尊重し、君が代を歌わせることが嫌ならば、先生を辞めれば良いじゃないか」という意見を聞く。石原もまた「教育者として」「遵守してもらわないと」というからにはその裏に「嫌なら辞めれば良いじゃないか」というロジックが控えているのだろう。しかし、こんな意見は次の思考実験を行ってみればどれほどみっともないかがすぐに判明する。つまり、ある日突然この日本が何者かに占領でもされて「日の丸を踏絵のように踏むこと」「君が代は一切歌唱禁止」となったなら、果たしてその論者達はどうするのだろうか。「ルールだから」日の丸を踏みつけるだろうか。まあ、「気に入らない」という理由で国民の付託を無視して突然議席を投げ出した石原の事だから、職を辞することだろう。
しかし考えてみれば、「ルールだから」とある時には国旗を掲揚し、ある時は国旗を踏みにじる。このような信念のない姿が果たして子供達に見せるに値するだろうか。また、己の信念とそぐわないからと、問題から逃げ出し職を辞する事が子供達の教育に良い影響があるだろうか(こう言う意味では石原は「ひきこもり」の子供達に果たして何が言えるのだろうか)。
わたしの価値観から見れば、国旗だの国歌だのは尊重するにしても、否定するにしても、そんな事は表層的な事でしかない。そのヒトそれぞれの生れ落ちた条件や育ってきた環境で肯定否定は分かれ得る。そんな表層的なことではなく、己に信念があり、それに対する問題が発生した時には、逃げずにそれに立ち向かう。そのような態度がどのような時にも社会を強くしていき、生きる力となるのだろう。ということだ。
「ルールだから」と慫慂と従うようなロボットが必要なんだろうか。