バリエーション

わたしの関心事項は時事問題から科学技術やら色々とあるわけなんだけれども、それらの問題で様々な議論がある場合、大体において最も重要と思う判断基準がある。これがわたしの「価値観」と言ってもいいのかもしれない。それが「バリエーション」なわけだ。その問題領域において、AとB二つの意見があった場合、そのどちらを取るべきかという判断をするとすれば、そのどちらのスタンスが、その問題領域において「バリエーション」を担保できるか。それを考える。いや、考えるというよりも、だいたい感覚的に惹かれるものの先にこの「バリエーション」があると見たほうが良い。時には、その問題領域に深く分け入って考え直し、意見を翻す事もあるが、その場合も乗り換えた意見の方がより「バリエーション」を保障すると思えたからだろうと感じる。
古くは「天皇制の問題」であれ、様々な宗教へのアプローチであれ、また最近ではイラク人質事件における色々な議論、それに Winny 騒動においても、その中で一貫したスタンスは、「それらの議論の中で、どの立論が社会にとって『バリエーション』を豊かにしてくれるだろうか」という判断から議論を出発させている。時に強烈に噛み付くのは、この「バリエーション」を枯渇させるとわたしが見なした意見なんだろう。
先に紹介した『スピリチュアル・シングル宣言』(ISBN:4750317179)という「宣言」は、二つの部分でできている「スピリチュアル(社会)宣言」と「シングル(ライフスタイル)宣言」(括弧内はわたしの勝手な補足)ということなんだろう。この内の「シングル−ライフスタイル宣言」については、ほとんど完全に同意できる。
今この日本を覆う様々な問題が、この「シングル−ライフスタイル」(=個の確立)で解決への糸口が見えるような気がする。著者の伊田広行はこの対極を「共同体主義」と捉えているが、その「共同体主義」が要求するものは、どうにもこの社会を息苦しく、「バリエーション」を駆逐して行くものと見なせる。そして「バリエーション」を失い、硬直化したした社会は、変化に対応する柔軟性を失い、自壊していくというのが、歴史が教える教訓なんだ(この国も半世紀以上前になるけれども、この硬直化で危うく滅亡しそうになったというわけだ)。
昨日「ゲシュタルトの祈り」という言葉をキーワード登録させてもらった。なんでもこの言葉は、この個の確立が為されていないものには「不安な気持ち」になるらしい。実際にわたしも少々の「座りの悪さ」を感じる(昨日キーワード登録前に色々なサイトを見て回ったが、その「座りの悪さ」からか、改変をしていたところもあった。その改変が「正しい」かどうかはこの際議論しない。また、この言葉を「簡単なリトマス試験紙」であるとか、「安易な心理テスト」と見なして扱って欲しくは無い。「安易な心理テスト」の欺瞞についてはまた述べる機会があるかもしれない)。「座りの悪さ」を感じなければ、それは「確固とした個が確立」しているのかもしれないし、全く逆に「この問題への感受性が未発達」なのかもしれない。もし、「座りの悪さ」を感じたとすれば、それがいったい何処から来るのか、自分の中にその淵源を求めてみるのも面白いかもしれない。