常に勝つのは官僚・官僚最強論、無謬論

車の移動中先の文科大臣、遠山敦子がNHKラジオに出ていた。自身の出版『こう変わる学校 こう変わる大学』(ISBN:4062123215)について語るという趣旨だったようだ。
(朝日のお追従記事)
各大学の法人化。つまりは文科省の「棄民政策」をあれこれと良さ気に語っていた。結局、実質的な予算権を持ったまま、そしてここまで空洞化した責任を負わぬまま、責任だけを各大学に背負わせるという文科省の無責任政策なんじゃないのか。NGO法案の成立時に当時の大蔵省はNGOのインカムは絶対に譲らなかった。どういうことかというと、例えば、私人やら私企業がその利益を一定の審査を受けたNGO組織に寄付した場合、それに減税措置を加えるというフレームは頑として反対した。このフレームが回ると個人は税を納める代わりに、直接NGOに資金を提供する事ができ、ひいては納税の選択ができるということになる。こうなれば非効率な税の運用をしている省庁はNGOとの競争にさらされる。(イラクに派遣された自衛隊と、同じように給水活動をしているフランスのNGOを比較すれば、どちらがコストパフォーマンスが優れているかはすぐに理解できる)つまり、政策運用に競争原理が生まれるのだ。
勿論、すべてが競争原理に晒されれば良いと言う訳ではないが、一定の税を個人の選択に任せると言うフレームは下手な行政改革などよりよほど行政の効率を上げる事ができるだろう。しかしこれは大蔵省、それもそのコアである主計局の米びつに手を突っ込むような政策であって、ろくすっぽ議論もされずに廃案となった。官僚は国民を信じない。(ちなみにこの廃案に熱心だったのが、今のNGO法案に尽力した辻元清美だったりする。あの当時からこの姉ちゃんは官僚の洗脳に弱かったのよ。ポイントがある、このお姉ちゃんはよいしょに弱い。誉めればどこまででも上って行っちゃうんだよね)
今回の大学法人化でも、寄付金と言うルートは弱く細い。結局、金の流れを押さえられれば、言われるような活性化も、言われるような独自化もなかなかできはしないだろう。少子化の流れの中で先の細った競争に晒されるだけの「棄民政策」という所以だ。(この辺りに法科大学の話しも重なって、「司法占領」と言う事態になるんだろうな)
なんといっても許せないのが「学びのすすめ」の話しだ。先の学習指導要領改正に伴って、「ゆとり教育」を推し進めると言うので教科書検定が大混乱をした。文科省は一律の3割カットという蛮行に打って出たわけだ。結局強い批判を受けて「ゆとり教育」の方針はまったく「無い事になっている」わけだけど、それでも週休2日制は残っている(教職員に対するアメなのか。公務員はいったん手に入れたアメは絶対に手放さないという好例がここにも)。で、このおばちゃんがなんと言ったかというと「ゆとり教育がちょっと大きく取り上げられすぎた」と来たもんだ。一律の3割カットを強制したのが、何かのついでだったんだろうか。そんなことは無い。他に何があったんだろうか。これこそが中心議題だったじゃないか。
官僚は金輪際過ちを認めない。そしてその上にお座りになっている大臣様は、そんな官僚に対して本来は監視を勤めるべきなんだが(それが「議院内閣制」ってもんだろうが)毎日の御講ですっかり洗脳されてしまって、「ああ、あれが正しかったんだ」と言うことになってしまう。
まったく、もう結構だ。無謬な者は、反省無き者はどんどん腐敗する。腐敗しきればいい。
年金制度も、財政の不健全さも、郵便貯金簡保の損失も、電電公社の「加入権」も、道路公団不良債権も、そしてこの醜く肥大化した官僚機構も、どうぞこのままにっちもさっちも行かなくなるまで行ってみておくれ。そして国民がそれに気付いた頃にどっかを相手に戦争でもおっぱじめて「国威発揚」「戦時徴用」ででも誤魔化せばいいんだろう。
今、責任を先送りしている官僚どもは、その頃になればガッポリ退職金を手に入れて、豊かな共済年金をもらえるだろう。そして戦争に巻き込まれないうちに死ねればラッキーだろう(遺族保障も厚生年金より共済年金の方が篤いと来ている。死んでも官民格差があるわけだ)。
国がガタガタになり、山河しか残らなくても、官僚機構だけは永遠に不滅なんだろう(己らは長嶋かミニモニか)。