「ゴーストの囁き」を磨くとは

あまり影でこそこそ言うのもなんですから儀礼的に式神を飛ばしておきましょうか。
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わたしは今回の「イラク人質事件」で自作自演と推定して様々所論(というか、罵声の方が多かったような気もしますが)を述べられることは良いとは思っています。わたし自身自作自演説を破棄もしていませんし、例の「ぬるぽプラカード」という表現行動も、わたしの趣味には合わないのですが有ったってかまやしません。それが言論の自由ですから。
ただ、例えば彼等人質達に何をそんなに苛立つのかと非常に興味があります。「自作自演だろ」とか「自業自得だ」と決め付け「どれだけの迷惑を蒙ったか」*1と「逢ったら卵を投げつけてやりたい」というメンタリティーには非常に伝統的な香りを感じてしまうんですね。これって「ムラ八分」の論理、「ムラ社会」の論理なんじゃないんですか?*2


ちょっと脱線しますが。

「誘拐がいわゆる自作自演じゃなかったらどうします?(´Д`)y-~」という問いかけに。

1:どのレベルで「証明された」事にするかによると思いますけどね。
2:ひとまずあなたの考える「自作自演でないと証明された時」とは、どのような時点かを教えてください。
3:私的には、最高裁で「自作自演じゃない」と判決が出たら”頭丸めます”w。
4:私は彼らを自作自演ではないかと「疑った」だけですので、それは名誉毀損ではなりませんので(法的にも、慣習的にも)、その必要もないのですが、何かしてほしいのならその程度はしてもいいですよw。
5:弁護士10人ついてますから、そうなるかもねw。
6:「自作自演の証明」は、私としては「あの3人が3人とも公の場で自作自演でしたと告白した時」です。
7:ところで自作自演だったら(´Д`)y-~さんはどうするのかと個人的には気になってますw。

(パラグラフ毎に付番してあります)
(固有のIDを“(´Д`)y-~”にしておきました)
というような回答がなされたとするなら、
これこそが詭弁なんでしょうね。そもそも(4)における主張がなされているならば、つまり「単に疑っただけ」ならばそれが誤っていたら撤回すれば良いだけで、何もする必要は無い。わたしの価値観としても問いかけ自体が空論じゃないのかという気はします。わたしならそう応えますね。
(7)が一番面白いですよね。自分の為した行為が論題に上げられた時に、相手の為した(または、為さざる)行為を論題にあげる。これは「論点をずらす」という、わたしが小学校の時によく使ったレトリックです。大人になった今でも相変わらずよく見かけますが、大概にしましょう。
(1)(2)に関してもこの論点ずらしは観測されますが、共通の定義を求めるという意味では許容されますでしょう。
面白いのは(3)ですね。ちょっとひねった「不在の証明」「悪魔の証明」を求めたつもりなんでしょうね。後に述べます「推定無罪の原則」を敷衍して早速頭を丸めてもらうのも面白いかもしれません。

脱線はおいておいて。

いつかじっくりと整理して述べてみようと思いましたが、ざっくりこの「ムラ社会」の論理を考えてみましょう。
古代の中国では…と、文章化すると長くなりそうなので。
性善説徳治主義
性悪説法治主義
法治主義→法を定め、「違法」以外は何を行ってもOK*3、遡及処罰の禁止*4
徳治主義−「人」であればOK、「人」でなければコミュニティーから退場を求める。

近代国家はたいてい法治主義を取っています、法治主義であるからには適法であるか違法であるかは司法がその罪を判断し、違法であった場合は司法が定めた罰を科します。
それ以上の罰を求める事はできません。
ところが「ムラ社会」は罰を受けたヒトに厳しい厳しい。「前科者」として就職もさせなければ*5付合いもしない。つまり「違法行為をするような者は、このコミュニティーに入れるわけにはいかない」という徳治主義的「ムラ社会」が形成されているわけですね。
また、近代の知恵は、際限ない暴力の連鎖を生み出す「私刑」を禁止しています。
更に、近代国家の構成員が論理性を身に付けるに及んで、「推定無罪の原則」を確立しました。これにより暗黒の魔女裁判的冤罪の可能性を少しでも軽減させているのですが*6、まだ論理的思考のできないヒトは多く、情緒的な魔女裁判ともいうべき事例はあちこちで見受けられます。悲しいことですね。

これだけ情報が乱反射、錯綜すると。いったい何を取って何を捨てるか、非常に大切になってくると思います。それこそ「ゴーストの囁き」を磨く必要があると思うのですが。例えば、ル・モンドの主張と勝谷の主張を見た時に、自分やあるヒトがいったいどちらを取り、どちらは捨てるかというのは興味がありますね。もちろん両者の名前やら権威が判断基準などではないだろう。そんなものには意味は無い。ただ、ル・モンドがどこに立ち、勝谷がどこに立ち、そして両者を捉えた自分がいったい何にたってそれらの主張を判断しているか。その自分自身の立脚点を確認する、内省する。それが「ゴーストの囁き」を磨くということなんじゃないかと思えますね。

昨日も言いましたが、「議論のしかた」という資料は非常に良くできています。しかし、そこにはこの「内省する契機としての議論」という大切な要素が抜け落ちています。詭弁を詭弁と自覚できずに使って、己が所論を硬直化させるだけだとしたら、非常に悲しいことです。

……と、わたしのゴーストが囁きます。


*1:迷惑だったんですか?誰が?

*2:単なる「レッテル張り」なんかじゃないよ。その説明は下でする。あ、上に行っちゃった。

*3:これが有ったから文明は発展できたとも言えます、例えば「外燃機関」ができた時に、こんなに騒音と排気ガスを排出するものを振り回すことは迷惑だと「遠慮」していたならば今の文明は成り立たないでしょう。それが有ってよいものかいけないものか、法による明確な線引きができているからイノベーションも可能だったんでしょう。

*4:憲法39条にも「実行の時に適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない」とあります。後からルールを決めて違法だとはいわない。ということですね。それこそヤクザマージャンじゃないんですから。ところがオウムサリン事件の時など、この原則を覆そうというヒトも居たわけで、怖いことですね。

*5:この辺、暴対法も問題だよ。これが有るから却って彼等を追いこむことになるんじゃないか?しかし希望も有る。なにせこの国は「前科者」でも首相になれるらしいからね。

*6:推定無罪の原則」を崩すとなぜ魔女裁判になるのかということも話さなきゃダメですかね?