弱い者虐めはカッコ悪い

社会は常に矛盾を孕む。その社会の矛盾を何かに集約させて、その矛盾を祓う手法。
大昔で言えば天変地異を人身御供に押し付ける、またはフレイザーの『金枝編』とでも言おうか。
ここには「共同体への帰属意識」といったものが暗黙の了解としてあるのではないかと思われる。自分の困窮は自分の選択によるものであって(それこそ「自己責任」「自業自得」というものか)帰属している社会にしても、それが所与のものとして動かしがたいということはない。極端な話し、その気になればヒトにとって国籍など選択可能な属性の一つに過ぎない。しかし、帰属する社会の困難を我が事のように受け止めてしまう、または我が事の困難を帰属する社会に原因を求めてしまう。(不思議なのは、「誰も迷惑など蒙ってはいないのに、迷惑だ!」と叫ぶ事)(例えば日本の国家行政機関が年金を破綻させたとしよう、その時に年金制度に批判を述べる事は上の「国籍の選択」とは話が違う。日本という機構が「100年安心」と保証したから参加した年金が破綻したとすれば、それはオレンジ共済並みの詐欺というものだろう)

何等かの「権威」に対して批判をくわえ、社会の矛盾をそこに集約させる事。
全共闘世代における「日米安保体制」「岸政権」と
今の世代における「戦後民主主義」批判は、実はまったく同じ旋律の変奏曲でしかない。

ただ、実際に権力を持つ者に対する批判が、一定の有効性を持つのに対して*1
それに引き換え、個人に責めを求めるこの有様は異常と言わなければならない。

*1:国家行政機構は実質上の立法権を持ち、司法を予算、人事で束縛できるという現実がある。というか、そもそも司法は自壊している。この時行政機構に対する批判を止めてしまえば、その無謬性を無条件に受け入れるとするならば、「絶対権力」となり「絶対に腐敗する」事を歴史は教える