儀礼的無関心/公共空間

儀礼的無関心」という議論が起こっている。
非常に生ぬるい議論というのが偽らざる第一印象だ。

まず、「ネット教習所をシステムとして作る−儀礼的無関心について−」について述べたい。参照先

インターネットにコンテンツを載せれば不特定多数に読まれてしまう、ところがそのような事を望まないヒトというのは居るのだから、アクセスを一定量で制限するなどのシステムを作ってみてはどうかというアイディアがある。

いってみれば、ヨットとかを始めるにあたって、最初から外洋に出るのは危険なので、入り江のような場所で練習させるようにしたらどうかというような議論なんだけれど。こりゃあ間違っている。確かにヨットなど入り江なりで練習させようって事は意味がある。自動車でも教習所があると言うのはそのとおりだ。しかし一定量のアクセス制限がそのような入り江であったり教習所であるという事にはならない。入り江でヨットに乗ろうと、救命胴衣は使うべきだし、教習所だからといってブレーキが甘い車に乗れば事故を起して取り返しのつかない事にもなりかねない。

Web上で意見を述べる、日記を書くという時にこの救命胴衣やブレーキの役目をする、自分を守る道具とは「個人情報の秘匿」ということだろう。うかうかと個人情報を漏らしてしまうということは非常に危険だ。これは入り江だろうと外洋だろうと水の危険性が変わらないのと同じだ。たった30cm程度のプールでだって時にはヒトは溺れて死ぬ。閉鎖サイトで公表した個人情報がいつどのような経緯でネットに出回るかはわからない。

そもそもこのWebという仕組みで扱われるものはコピーしても劣化しない、そして参照されるものは参照するものの正体が掴めないという特性をもつ。

“一定量でアクセスを制限する”というが、その“一定量”なるものが果たしてこの「不特定多数のヒトに自分の日記を見られたくない」と思っているヒトにまさにふさわしい者という保障などどこにもない。

また、このような閉鎖サイトにありがちな事としてアカウント、会員制という仕組みもある。しかしそのような会員制という仕組みは逆に個人情報を晒す事につながり、また密な人間関係がこじれた時、いよいよ問題が深刻化するという事は多い。

入り江が安全だからと救命胴衣も持たずに、うかうかと過信してヨットを漕ぎ出すような事を薦めてどうする?

人間を性善説で見るものと、性悪説で見るものがいる。わたしは人間はそのままでは善とも悪とも決めることはできないと思っているが、人間集団を律するルールは是非「性悪説」に立って決めていただきたい。性善説に立って決められたルールは一見「ひとの善意に立脚したルール」と甘美に思えるがその実とんでもない帰結を迎える。この経緯に付いては稿を改める。
あまりにお気楽に過ぎる。
「ネットでの儀礼的無関心」結 参照先

「OPEN to ALL」という未来を志向するならば、
戦略的に「OPEN to A FEW」を希求する人に一定の配慮をしたほうがいいわけですね。

無理です!
「OPEN to A FEW」(Open to part)を希求する気持ちは判りますが本質的にこの希望はかなえられません。時にわたしたちはこの地球に重力がなければ楽だろうにと希求しても適えられないのと同じように無理なんだ。

なにせ、見るのも書くのも人間であるからには最初求めた Part がいつ求めていない Part に豹変するとも限らない。これをどのようにコントロールするんだ?絶対に不可能だろう。しかし、なんとなくこういった「自分に気持ちのいい空間がどこかにあるんだろう、いや、あるべきだ」と思う勘違いはどこから来るか。

そのサイト、少々上にこのようにあります。

「権利」とは、誰のそれも、原初的にはエゴイスティック(利己的)なものです。そして、個々人がそのエゴに折り合いを付け、そして利益を共有することが「公共の利益=公益」となります。

 この件では、いろいろな人の利害が絡まっています。そこで、前提にしなければいけないのは、「(法を犯さないかぎり)すべての人の、どんな欲望にも、それを希求する権利はある」ということです。これは大前提です。

この考え方が間違っているのです。
確かに「公益」を満たすためにはそれぞれの個人がそれぞれ折り合いをつけなければならないでしょう。しかし、それならば「儀礼的無関心」は成り立ちません。関心を示し、覗き見、冷笑を加える者の「権利」も、それを希求する権利を認めるとすると、少数のヒトに関心を示して貰い、覗き見は勘弁してもらって、自分の文章に冷笑される事を厭うヒトの「権利」は侵害されます。常に権利と権利の衝突と調整が起きるだけになってしまうじゃないですか。簡単な論理矛盾ではないか?

では、公共空間が無いかといえばそれはある。
それは「匿名である」ということなんだ。 参照先

2chなどにはそりゃあ確かに酷くゆがんだ言説もあれば醜い言葉も溢れている。それらの言葉を吐く者は、確かに何かの問題を抱えているんだろう。しかしそれらを匿名で吐いている分には彼等は「安全」で居られる。一切の圧力から離れて居られる。(逆に圧力を加える事も本質的には無理だ)このような「権利」と「権利」の間。「個人」と「個人」の間に相互にいかんともしがたい空間が生み出されれば、それこそが「公共空間」なんだ。
もちろんそれを一人の人間が自分のリゾートと占有する事もできない。占有したとたんにそこは公共空間ではなく私的空間になる。「公共」であるとか「公共空間」が誰か個人の、または誰とはいわない全てのヒトにとってすばらしいリゾートであるかのような考え方は幻想に過ぎない。なぜなら、それは人間そのものが美しくもあり、醜くもあるからに他ならない。その人間が生み出す公共空間も美しくもあり、醜くもなるだろう。

最後に具体的な話として2chが出たので一言付言するなら。
その昔はよく個人ページにうかうかと個人情報が載っていたりした。名前、電話番号、住所、顔写真。時にはそういったサイトが「ネタ」になったりもした。ところが今ではそういったサイトが減っている、というよりも絶滅している。これは非常にいい事/残念な事だと思う。こういった個人情報の保護と、個人情報の公開に対する警戒という常識は2chがばら撒いてくれたんじゃないかとすら思える。(少々はわたしたち「あめ厨」のせいでもある)

水に対する警戒心があってヨットが楽しめるように、ネットに対する警戒心があって、Webも楽しめるんじゃないんだろうか。



歴史的参考文献
毎日新聞:電子の森を歩く「匿名の世界 人の孤独が見える」(1999年5月5日東京版から)

この記者の意見がすべて正しいとは思わない。しかしそれ以降の「現状」をみると、わたしの観測はそれほど誤っていなかったし今のありようはこのようにしかなりようがなかったという意味で正しかった。今回の騒ぎはこの議論の焼き直しでしかないのではないか。



てな事言っていたら、こんな事件が
女子大生のHP見て恋心 新潟大立てこもりの米国人学生 (朝日新聞 2004/2/6)
どのようなシステムも、システムまたはルールではこのような事を防ぐことはできない。あたかもシステムがこのような事を防ぐかのうように見せることは、却って運用者の気の緩みを招き似たようなケースの発生を促しかねない。