論理
なんだべなぁ。
「論理」って奴が凄い勢いで買被られているなぁ。
「論理」と言うのは思考の道具であってさ、そのものに政治性も何もないだろ。
あるのは有用か無用かという価値儀準だけなんじゃねえんだろうかな。
例えば:
核爆弾を爆発させるとするじゃない。
核爆弾を爆発させる事が良いか悪いか。
その価値判断は、その事実と周辺の状況からなされればいい。
勿論「無条件で核爆弾の使用は悪い事である」と見なす価値観もあるだろうし、
「(戦術核のように)単なる兵器の一種にしか過ぎない」と見なす価値観もあるだろう。
また「非戦闘員を巻き込む無差別大量破壊兵器としての核爆弾は使用されるべきではない」
という価値判断もあるだろうし、
「何等かの戦略的背景の下での核兵器の使用は容認される」という価値判断もある。
この最後のが米国なんかが広島・長崎への核使用を正当化する時に使用する「論理」なわけだ。
さて、ここで「論理」という言葉が出てきたんだけど。
ここで使われている「論理」は後に詳細に語ってみるのでここでは「論理B」とでも
名付けて一端棚に上げておく。
(書きかけて果てたのでとりえずメモ替わり)
一言で言うと
「論理なんて道具ですよ、
偉いヒトにはそれがわからんのです」
情報をそのものとして評価するのではなく、
それをどう処理するか。
そしてどのような行動が導き出されるか。
つまり、情報の発信を問題とするのではなく、
情報の受け方を問題とする。
※あ〜「創」なんかで散々やっている、
「マスメディア」の問題。
マスコミの問題というのは、
もう既にこのような「受け手」が情報を発信し得る
社会においては大した問題になっていないのかもしれない。
マスコミがマスコミ相互でお互いのありようを検証し
批判する事は健全な姿だが、既に力を失っているのかもしれない。
情報の受け手が相互にお互いの情報処理について
検証し批判しあうという契機は、
なかなか実現が困難なのかもしれない。