昨日、幾つかの事件に隠れるように宮崎勤の死刑判決が確定した。
以下の稿はこの判決以前に書かれたものである。

しかし、一つのエポックを為した事件も時の経過と共に忘れ去られていく様は、また様々な事を考えさせる。


「死刑制度反対」についての一つのアプローチ。

現代の社会には「暴力の排除」というメッセージがこめられているように感じられる。一昔前であれば学校や会社などの組織で、上席者が下のものに教育の一環として暴力を振るう事が容認もされてきたし、一流の企業、学校などでも鉄拳制裁は現に存在した。しかし現在においてそれは否定されるものであり、鉄拳制裁はその背景事情を問わず否定されているように思われる。
つまり、暴力による意思の表明はその理由の如何に関わらず許されない行為であり、暴力による意思の表明を行う者は文明的な社会とは相容れない者であると扱われるようだ。

先に「暴力とは意思の表明である」と書いたとおり、暴力も一つのコミュニケーションの道具であり、それを為す者も為される側も言語と同様に一定の共通理解が必要となる。昔であればその理解は成立し、暴力を介して一定のコミュニケーションが成立し、意思の表明を行う事ができた。ところが社会全体がそれを排除する事によって、もはや暴力はコミュニケーションの道具としては成立しない。単なる「意味がわからないもの」と成り果てている。

この影響は有効に機能し、「暴力団」と呼ばれる組織の中でさえ、暴力を振るわれたと構成員が上席者を警察に訴える事例が相次ぎ、その中で「下らない事で若い者に手を上げれば身柄を拘束され業務に支障を来たす恐れがある」と、暴力の否定が通達される始末である。(だからといって違う形で組織を成り立たせているのだろうが)

社会から「暴力」を排除したこのアプローチを見ると、「死刑制度」の持つ意味がまた一つ重く感じられる。

「死刑制度」とはつまり、この社会が特定の個人に対して「そんな奴は死んでいい」というメッセージを放つ事であり、そのメッセージが容認されるということに他ならない。

誰かが誰かを殺してもよい、どこかにヒトの死をもってしても守るべき「正義」があるというメッセージを、この社会が容認するということである。

殺人を犯すものは、ヒトを殺そうとする時に自分が間違っているとは思っていない。少なくない殺人者が「自分には『正義』がある」と思ってヒトを殺す。確かにその思い込みは身勝手であり、甘えに満ちた論理なのだろうが殺人者にはそれが判らない。
では、死刑を施す社会にこの身勝手、甘えはないのだろうか。

様々な人々からなる社会において、悪と正を分別し、死によって排除すべき悪があるとするこの社会に、甘えはないのだろうか。

この社会が「死刑制度」を存続させる限り、「死によって排除される悪がある」という物語は生き続け、殺人という行為もまた補強されるのではないだろうか。この社会が為すべきことは、先に暴力を排除した如く、「死によってまで排除されるような悪はない」というメッセージを打ち出す事であり、理由の如何に関わらず、ヒトを殺してしまう事は「意味がわからないもの」であるとその行為自体を排除してしまう事なのではないだろうか。