匿名による投稿の復権

あめぞう」から「2ch」へと舞台が移るにつれて大切なものが欠落していった。そして今、その大切なものが欠落したまま「2ch」は新しいメディアとして一定の力を持っていった。その力の源泉はこの「大切なものの欠落」がもたらしたものなのかもしれない。

今一度「匿名投稿」とは何かを考え、この大切なものを取り戻す必要があるのではないか。

「2chはあめぞうの正当な後継ではない」
「俺はうんこもらした(わらい)」と「帰れ!」
「あめぞうとぁゃιぃ2chへの流れの中で失われたもの」

の続きとなります。

ポータル思考とブログ思考(これ、おまけ)

最も基本的な事、そして忘れるべきでない事は何かというと、「全ての言説は批判されるためにある」ということに他ならない。人間というものも、それら人間が様々に織成すこの社会というものも、必ず矛盾を含む。そもそも論理的に整合できないそれらのものを、不完全にしか写像できない「ことば」が絶対でありえよう筈が無い。記述とは本質的に不完全なものにしかなりえない。記述された言説は必ず矛盾を含む。言説というものは様々に批判を受けブラッシュアップされる中でやっとその標的に近づいていける。しかし常に掬い取れないナニカを含む。
数学やら哲学などの厳密さを求められる領域においては予めその言説の到達範囲に制限をかけて言説(命題)の有効性を担保する。
社会学やら経済学が得てして「宗教」と揶揄されるのは、こういった到達範囲を超える行為が往々にして見られるからに他ならない。

ぁゃιぃ」においてはこれは当然のこととされていたのだろうと思う。そこで語られることは「自分」のことであり、その「自分」は批判を受けて当然と了解されていた。批判されるべき「自分」を曝け出すことにより、その批判されるべき「自分」が修正作業をなすべきなのか、それともそれは容認されることなのか、それが測定されていたのではないだろうか。

あめぞう」においては「自分」は取りあえず脇において、様々な「事柄」が槍玉に上がっていた。しかしこの言説はどこに向かっていたのだろうか。「事柄」を語りながら、結局は語る「自分」を確認する作業が続けられていたのではないだろうか。「あめぞう」の最末期、「全てはネタ」という言葉が力を持った。取り上げられる事柄、それを取り上げた様々な言説、さらにはそれへの自分自身の寸評。これら全ては「ネタ」に還元される。

  • 結局、匿名投稿というものはパーソナルな作業に過ぎない。

投稿者は自らの視点で様々な事柄を語る、そして批判を受ける中で他者の視点を得、自らの言説と、それに至った思考を再確認する。他者を動かすであるとか、事柄に対して働きかけるというような作業は派生的なものでしかない。

「2ch」であるかと blog という存在が「個人の情報発信」という文脈で捉えられている。しかし、個人が果たしてどれほど発信すべき情報を持っているのだろうか。それよりも発信者個々人が自らの視点から見えるものを語り、その視点からは死角となっている意見を受ける。このような作業の中で発信者の視野が変容し、様々な事柄に対して自分が持つ思考の道順、アプローチがより正鵠を射るように修正する。このような作業こそ重要なのではないだろうか。

  • 批判に対する決定的に誤った態度というものがある。

匿名であれ実名であれ、このように「情報発信=自己確認」と捉えた場合、それに対する批判を恐れる必要は無い。それどころか情報発信とは批判を受けることこそが主たる目的になる。

自我が開かれていないものは批判に耐えられない。または、自己の言説があたかも自己の人格であるかのように受け取られている*1。これは「言霊」というものの一つの側面かもしれない。しかし、言説とは結局自己の一部でしかないではないか。更にいえばそれは自己の一部を不完全に表出させたものに他ならないはずだ。
それを少々批判されたといって人格の全てが否定されたわけではない。改めるべきは改めれば良いだけの事だ。改めるべき「(自己の)部分」に対してすら修正が効かないとすれば、それは単なる硬直でしかないだろう。

更に批判を恐れる姿には戯画的な部分がある。それは「批判の言説を恐れる」ということだ。掲示板などでは「レス」として、そしてこのような blog では「トラックバック」「コメント」という形で発信者に対して様々な批判が起こりえる。その表明された批判だけが批判であるとでも思っているのだろうか。一般的にそのような表明された批判の影には、表明されない批判が数倍、数十倍のオーダーで存在している。
パソコン通信、BBSの頃から言われていた。「ROM最強」とはこの謂いだ。「ROM(リードオンリーメンバー:読むだけで自己のコメントを表明しないメンバー)」は批判するかも知れないが己が批判されることは無い。結局、コメントを残すということは土俵に上がるということである、リングに上がる、または闘技場に入るということだ。あたかも「ROM」はその土俵上の論者に座布団を投げるように、リングのボクサーにビールのカップを投げるように、闘技場の剣士に石を投げるように、嘲笑を投げつけることが出来る。
表出された批判を恐れ、しかし言説の表明を続けるという行為は、このような嘲笑に対して無自覚であるというだけに過ぎない。

  • 情報の発信よりも、実効力を求めるよりも。

「2ch」における「祭り」であるとか、様々な blog で呼びかけられる「運動」。確かにこれらを見るに、インターネットというメディアが実社会における実効力を持ち始めたのかもしれない。つい昨日も「中国大使館に花束を持って」といったようなデモが計画され、それが批判され、さらにはグダグダになってしまったらしい。その様子など仄聞するに、また同時にそのスレッドの周囲にあった「人権擁護法案反対」のオフ会が日本各地で計画されている様子など見るに付け、非常に胡散臭いものを感じずにはいられない。
あるいはそれらフラッシュモブと呼ばれるものが政治的文脈で利用されようとしているのかもしれない。ある種ファナティックなものも感じる。しかしそのような一過性のことにはさして興味は無い。
「俺達2chオフ板を利用した!」だって?バカじゃないの?単なる「ネタ」じゃないか。それよりも「自分」を「2chオフ板」に帰属させ「俺達」と括らせている自我の在り方に疑問を持ったほうが良い。「2chオフ板」は「利用」されるだけの力を、(小さいけれども)政治力を持っているのかもしれない。しかしそのように帰属し、依存し、組織された「自分」は常に「利用」されるだけだ。それはどのような「組織」にもいえる陥穽なんだ。
そのような「実効力」を求め、力(権力)を求めるよりも個々人にとっては喫緊の課題がある筈だ。
それは、個々人が己の視座を確認し、己の言説を検証し、その思考の方法を再度顧みる。
自己の変容すら恐れず批判に開かれる態度を身に付ける。
これこそが「開かれた言論空間」というものを成り立たせる最基底ではないだろうか。
硬直し、舞い上がった言論こそ醜悪だ。このようなパーソナルな営みに「実名性」など必要ない。「自分」の言説は「自分」が一番知っているのだから、そして「自分」以外には知る必要も無い。同意よりも批判を。「連帯を求めて孤立を恐れず、別個に立って共に撃つ」自己に対する権威も信頼も必要ない。自己に寄せられるそれら依存こそ否定すべきだ。そのような依存から来たした力など、己を豚が上る木にせり上げる物と自覚すべきだ。自己の中で行われる内省こそ言論に力をもたらす。
今こそ実名ではなく匿名で声を上げるべきだ。



以上で「あめぞう」から始まり、「2ch」「1ch」更には「Der Angriff」などで本当に語りたかった事を、そして「黒木掲示板」で語ることが許されなかった事を語り終えた気がします。

*1:法的にはそのヒトの言説はそのヒトの人格であるとして保護されている。これは法律が「弱い(立場にある)ヒト」を保護する最低線を基準に作られていると考えれば了解できる。または、他人に対しては法律というやさしい基準を適応し、自己に対しては、「全ての言説は(人格権を離れ)すべて批判されるべき対象である」と厳しい基準を適応させると了解することも出来る。「言論の覚悟」とは、PJ小田光康が誤って認識しているように、言説への実効的な責任ではない。日常生活に責任を持つものがそのような危険に身を晒す必要な無いしできはしない。できるとするならばそれは生活破綻者、または無責任な言説に他ならない。そうではなく本当の「言論の覚悟」とはこの批判への開かれた態度のことであるだろうし、そこでなされる自己変容に恐れを抱かないということに他ならない。