「プロ市民」考

プロ市民」という言葉について考えてみたい。
この「市民」という言葉にはそもそも政治的な意味合いが含まれているように思う。自称として「市民」を取る文章は、「週刊金曜日」であるとか「世界」といった所謂「左」のコミュニティで多く見受けられるように思える。翻って「正論」であるとか「SAPIO」といった「右」とみなされる言論空間では「国民」という言葉が選択されているようだ。
両者の政治的カラーを彩るのは「国家」からの論者の距離感であろう事は容易に想像がつく。
本来「左翼」とは「国家」(国家行政機構/体制)に対する批判的立場を持つ者の事であろうから、自分達をして「国家」の民である「国民」から遠ざけ、「市民」という言葉を選択するのは理解しやすい。逆に「右翼」が自らを「国家」の民として「国民」と規定したとすれば、これも話しはスムースに進む。しかしここで一つの捩れが起きているから面白い。
というのも、「右翼」思想では「国」に様々なレイアが含まれている。
1.国家行政機構、法的存在としての「国」
2.民族国家としての「国」
3.地域的範囲としての「国」
勿論、3の境界を明示するものは1としての国であるし、1としての国を形成するものは2としての国でもあるだろう*1。また、2の中でも文化的価値観の尊重という態度もあるだろうし時に自国の民族の優位性という非常に危険な思想*2もある。
1と3においては比較的明確な「国」の定義が可能だろうとは思えるのだが、2については実は簡単な定義ができはしない。民族も歴史もスタンドアローンで存在していたわけではないし、特に「日本民族」を歴史的に省みた場合、そもそも「国」という意識は乏しい。
神武天皇の建国の理想とされるものですら、その基盤は擬制的な「家族」となっている。
このような混乱の中で「右翼」思想を持つ人々は様々なポジションを取る。
あるヒトは国家行政機構、更に与党政権党までを含めて肯定的に捉え、それへの批判に対して批判的だ。また、民族に基盤を持つものは国家行政機構、その構成要素としての官僚制に批判的であったりもする。また、法的範囲としての「国家」とその地域経済を優先的に考えるものは。(最近の流行りで言うならば「国益」を尊重するもの)は官僚機構であるとか行政機構を批判するだけでなく、その法的根拠を成り立たせている民族的習性までも批判の対象とする。所謂「国益の為に、今のこのような日本国民ではダメだ」というような言説がそれである。

一般的に「国」を批判的に捉える「左翼」はその価値観が比較的明白だ。論理の軸となるドグマを見出しやすい。か、またはドグマ自体を批判するからこそ「国」を批判するというスタンスもある。しかし、「右翼」の場合、そのドグマが上記に捉えたように混乱を来している。「国」に帰依するとした途端にその先に進もうとしない。*3

「国家」からの距離を置くもの達が自らを「市民」と称するとして。それら「市民」は「国家」とは距離を置きつつ様々な活動を行う。環境の保護であったり、様々な法整備、及び法の不備の批判であったり戦争に対する反対運動であったりするわけだろう。

わたしは軍事活動としての戦争に否定的ではない。それは何某かの形で最後まで残るだろう。しかし、軍事的な力の行使は最もコストの高いものであろうとする「孫子」の慧眼に同意する。国家の為す政治行動の中で「軍事活動」は最後の手段であるべきで、これを持ち出す政治家は他のアイディアが思いつかないという愚かさの自覚が欲しい。また、そもそも平時であってもヒトは何等かの形で収奪、獲得を行わねばならず、それがアンバランスであれば戦時と同じ悲惨さは常にあるだろう。そういう意味で「反戦」とは「自分の見える範囲に戦争の悲惨さを持ちこまないで(あっちでやって)」と言っているように聞こえて仕方がない。このような「反・反戦」に対する所論は稿を改める。

さて、このような「市民」の活動を見た時に、一見それは「美しく」見えるのだろうか。「地球温暖化防止」「この法律に福祉の谷間が」「戦争反対」これらの言葉には抗えない力がある。それらの所謂「美名」を旗として活動をしている人達に対して様々な反応があるのだろう。中にはそれに対して自己を正当化しようとする矮小な心性からなんの根拠も無く「偽善である」と決め付ける場合もあるようだ。その辺りの事は以前に 「それって偽善だろ?」という安心を求める心としてまとめてみた。

確かに所謂「市民運動家」と呼ばれる人達の活動の中に、利潤追求の為の活動が無いかといえば完全な否定はできない。また、それらの利潤追及の無い人達であったとしても、ファナティックな執着から活動を続けているようにしか見えない人達も居る。しかし、時として信じがたい事かもしれないが純粋な理想やら高邁な理念、または長期的な視野に立って活動を行っている人達も居る事は事実であって。それが理解できず、短期的な自己満足からそれらを「偽善だろう」と決めつけるのはなんとも悲しい事だと思える。

さて、こう考えてみると「プロ市民」という言葉の持つ意味が見えて来るような気がする。
「『市民』と自らを定義して、純粋な理想、高邁な理念を語っていても、それはあなた方がプロであり、その活動から何某かの経済的利潤を上げているからなのではないですか?」と、いう言葉が「プロ市民」という言葉なのではないだろうか。
つまり、「安心の言葉」なのでしょうかね。

某所でこの「プロ市民」批判を行おうとする人達の主張を拾ってみた。
プロ市民」とは概して次のような特性を持っているとの事だ。
曰く「そもそも共産主義者やらセクトといった教条的な対立から暴力的な抗争を繰り返していた好戦的な者たちが煽動しているにも関わらず、その反省も無く例えば『戦争反対』という美名の下に組織を作り上げている。そのような煽動家に追従するものは思慮が浅く独善的で視野狭窄に陥りやすく理想主義的で空想主義的だ。そして論理的な帰結ではなく感情的な判断基準で動いてしまう」

実はこれらの批判は「プロ市民」にだけ適応されるものとは思えないんですよね。どのような組織であれ、その構成員の何割かは「論理的な帰結ではなく感情的な判断基準で動いてしまう」ものです。また、「思慮が浅く独善的で視野狭窄に陥りやすい」からこそ「組織」というものは成り立つとも言えます。
つまりこれらの批判は「プロ市民」にだけ向けられるべき批判ではなく、組織体全てに言えることに他ならないだろう。

そういえばわたしには最近、本当にこれは「プロ市民」だなぁ。と思えるヒトが一人居ます。「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会」(以降「家族会」)の増元照明*4です。元はサラリーマンをされていて、先日の参議院選挙に立候補した後に今では「特定失踪者問題調査会」とかいうの常務理事をやっているんですね。
完全な「プロ」です。
別に「プロ」だからといって彼の主張やら「家族会」の活動が営利目的だなどと批判するつもりはありません。様々な活動をするにしたってご飯は食べていかなければならないのですから。わたしは「北朝鮮による拉致問題」の解決に対して「家族会」のアプローチに批判的なのですが、その言説も増元照明のプロ化とは関係がありません。
ただ、組織運営として引っ掛かりを感じるのは間違いありません。「論理的な帰結ではなく感情的な判断基準で動いて」いやしないか。「思慮が浅く独善的で視野狭窄に陥」ってはいないか。

「家族会」の活動を伝えるメディアは肯定の嵐のようです。ちょっとした揶揄やら批判も聞かれません。メディアに従事する人々の中には「家族会を扱うのは皇室を扱うみたいだ」というヒトもいるようです。
先日も拉致被害者救出を願う署名が500万人に達したとか。これも二重に検証したいのものです。
まず、素直に考えて500万人の署名が有効なものだろうか。全人口の20人余りに一人ですよ。次に、これを携えて「家族会」は経済制裁に踏み切るように求めているようですが、署名した一人一人はそこまで求めているんだろうか。そもそも経済制裁を言われ出すまえからこの署名運動と言うのは続けられていませんでしたか?
確かに家族をどことも知れないところに連れ去られたと聞けば誰だって助けてあげたいと思うことでしょう。わたしもこの問題には「韓国―KCIA説」のあった頃から着目はしていました。署名をする事で助かってくれるなら何度でも署名することでしょう。しかし、この問題はそのような「感情的な判断基準で動いて」も解決する問題なんでしょうか?
結局、日朝間の政治問題と北朝鮮国内の司法、行政の問題に帰結しているでしょう。
経済制裁どころか軍事的行動を口にするヒトまで出る始末ですが、それこそ「思慮が浅く独善的で視野狭窄に陥」った無責任な言説としか言い様がありません。ここで日本が北朝鮮に軍事侵攻して、まだ一縷の望みがあるやもしれない拉致被害者が生き残れるものなのでしょうか。却って生命を脅かしてはいないでしょうか。*5

以上ちょっと「思慮」を深くしてみればすぐに判ることなのですが、「プロ市民」として批判されるような事柄と言うのは大体において組織体に付いて回る弱点に他なりません。それはイデオロギーの左右も、思想性の高低もあまり関係無いのです。

そして、実は個々の運動やら個々の組織の問題を具体的に、そして本質的に掘り下げる事をせず、単に「プロ市民」と大雑把に括ってみせてそこで「思考停止」に陥っている。これこそがこの言葉の持つ最も戯画的な陥穽なのではないだろうか。


*1:つまり、法の成立は民族の価値観の反映であろうと言うこと

*2:「自国の民族が優位である」という「思想」が危険である理由は少し考えれば容易に導ける。「民族」なるものに「優位」があるとすれば、どこかに必ず「劣等」の民族を想定しなければならなくなる。また、民族とは一般的に血統として定義される(後天的な「宗教」などで定義される例もないではない)そのようなアスクリプショナル(帰属的性質)でヒトの集団を分け優劣をつければ、その両者に自ずと相互攻撃のポテンシャルが生まれます。このようなポテンシャルが文化的には数々の名作を残す事は知られていますが、同時に社会的な不安定を引き起こす事も自明の事です。

*3:一部の「右翼」は気付いているようだが、「中心の空白」こそが「竹」の如きしなやかさと強靭さを与えているという意見もある。このスタンスに立つ「新右翼」「新民族派」と呼ばれているものは時として「国家批判」のスタンスに立たざるを得なくなる

*4:一々お断りを入れるのもなんですけど、わたしは文章中敬称は一切付けませんので

*5:まったく、イソップと言うのは人間観察に優れています。「北風と旅人」という寓話はこの日本の文化には根づいていないのでしょうかね。