わたしは血液型占いが嫌いだ!

人間なんてものはそもそも物事を真っ直ぐになど理解できない。論理的に整合性のある推論も立てられないし、「世界」をあるがままに見る事もできない。だから「絶対の真実」なんてものは誰も理解できないだろうし、胸を張って「この考え方に間違いはない」なんていうヤツの話は眉につばを付けて聞いたほうがいい。この考え方に間違いはない。
論理的に正しい行動なんてものばかり取っているヤツなんぞいやしないし、合理的な推論は常に実体とかけ離れていく。人間は不完全な物だ。
気分だとか、感じ、思いつきに準じる事、思い込みに準じる事。それらがすべて悪いとは思えない。ヒトに「なぜ○○しないんですか」と行動に合理的な説明を求める事は、そもそも不合理こそ人間という実体を無視した無理難題というものだろう。
人間は本来、不合理な存在なわけだ。しかし人間が集団で生活する上においては合理性が求められる。銘々が気分次第で信号無視を行えば交通は成り立たない。個的な場面においては不合理なままでも良いのだし、そもそも不合理こそが本質である事を忘れるべきではないが、社会的には合理性が求められる。
今のこの社会には様々な「オカルト」がまかり通っている。血液型占いやら星座占いなどの占いの類。降霊術(交霊術)だのクチヨセだのの類。ツチノコネッシーにUFOにMJ12にイルミナティーに死海文書にそれに関わる有象無象。ダウンジングに鯰と地震雲
なかにはその影響範囲が個的な場面に留まるので一々論って批判するにそぐわない物もある。だからわたしはそれらへの懐疑は持つが否定はしない。しかしだ、その影響範囲が公的な空間を侵食し、時としてそれをしてヒトを従属せしめる事がある。このような場合には強く疑義を呈したい。「頭を冷やせ!」と。
血液型による占いだの性格診断を「差別の代替」と指摘したのは呉智英だったか、これは至極達観であると思う。平等化された社会において血統だの家庭環境だのその収入だの目の色髪の色肌の色、しゃべる言葉着ている服ものの考え方。これらが酷くフラットになってそれでも見つけた差異が「血液型」であって、それによって差別を代替する。この心性は実は他の差別と何等変わらない。他者との比較によって自己のプライドを満足させるという、卑しいさという意味では差別の原型であることに変わりはない。しかし、それが児戯に等しければ笑って過ごしてやればいい。
はいはい、血液型が合わないので良いお友達でいましょうなんて女はこっちから願い下げだい。
そして最も酷いのが「サブリミナル効果」といわれるものだ。いい加減に「頭を冷やせ!」
聞くだけで彼女ができる?「奇跡の着うた」の謎に迫る(ITmedia)
おいおい、苫米地英人じゃねえか。
あのなぁ、「サブリミナル」だのでヒトを動かせるなんて思い込めるのは催眠術講座やらとどう違うんだ?それって「ミン剤で女眠らしてヤッチまおう」ってな馬鹿とどう違うんだ?大概に電通だの坂元章もこんなネタを飯の種にしてるんじゃないよ。

おかげで面白い物は見つかったけど。
説得と交渉のコミュニケーション辞典
サブリミナル効果

あ、最後に。おい苫米地、その髪型はなんのサブリミナル効果なんだ?