「それって偽善だろ?」という安心を求める心

なんだよ、そういう事かよ。それならそうと言ってくれればいいのにさ。つまりこう言うことだ。自分ではそんな立派な事はできない。そんな面倒な事はしたくない。けれども確かにその行為は立派に見える。彼等が立派で、ここにそんな事が出来ない「僕」が居る。つまり「僕」は彼等に「負けて」いるの?いや、きっとそうじゃない。「僕」が彼等に「負けて」いるなんて事はないんだ。きっと、そうだ。きっと彼等がそんな立派な事が出来るのには訳があるんだ。「僕」には彼等に備わっている条件が無いんだもの。え?やっぱり?彼等は実はお金持ちの子供だったの。なんだ、思った通りじゃない。お金持ちの道楽か。「僕」にお金があれば、もっと有効な事が出来るのに。
人間は「願望」を信じやすい。自分がこうあれば良いのにな。と思っている事柄の兆しがみえると「きっとそれが実現するに違いない」と期待をこめて信じてしまう。しばらく前の「世紀末」感覚もその内の一つだろう。若者は社会に基盤がない。そこでは古参、先住者である年長者が既得権を持ち、若者を受け入れない、若者を搾取する、若者に彼等年長者のルールを押し付ける。若者はこういった社会の壁に突き当たる度に社会からの疎外感を味わう。その疎外感はやがて社会そのものの否定、社会そのものの消滅の願望へと育つ。そうした社会への否定的な意識が「世紀末による世界の終末」などという「甘言」を前にするとどうなるか。その情報への評価が甘くなり容易にそれを信じてしまう、信じやすくなるというよりも、ここには「信じたい」というもう一つの「願望」が生まれる。

なぜこんな事を突然思ったのかというと。某所で、先日自宅から飛び降りた窪塚洋介の容態を詳細に掲載しているのを目にしたからだ。多分、今この瞬間にもその情報はネットの中をあちらからこちらに飛び交っていることだろう。他人の不幸は蜜の味。その情報の真偽など最早どうでも良いのだろう。そもそもその情報が、一体自分にどのような価値を持つのか。それすらもどうでも良くなっている。それまで自分以上に成功を収め、金やら名声を得たものが、「再起不能」に陥っている。そう聞いて、けっしてそれをおくびにも出しはしないが「うれしい」のだろうか。心の表面では「かわいそうに」と思っているかもしれない、口では「早く良くなるといいね」と言うかもしれない。しかし、その情報を「受け入れる」理由は?
その情報を「受け入れたい」からなのではないか。

イラク人質事件において「自作自演」を信じた者たちが居た(中には「強く疑念に思っただけ」と詭弁に終止する者も居た)。確かに今でもその疑念は拭えてはいない。またわたしも発生当初、これが「自作自演」だったら面白かろうとも思った。しかし「自作自演」などという推測を受け入れるにはイラクと日本のこの社会のありようが余りにも異なるだろうとの想像は働いた。ここでわたしのゴーストは「自作自演懐疑」に傾いた。あくまで「自作自演説」には懐疑的な保留を付けつつ情報を吟味しなければならないとの警報がなった次第だ。しかし面白い。それ以降「自作自演」を信じたものたちは自説を補う情報には非常にビビットになり、今では人質達の「協力」を掬い上げて「それでもヤラセだったじゃないか」と強弁している。
彼等、イラク人質事件の被害者は偽善者でなければならない。そして周囲に迷惑をかけても平気な自分勝手なヤツラでなければならない。あの事件は事件などではなく「ヤラセ」でなければならない。例え、その時にのどに押しつけられた刃が本物であろうとも。その時に周りを囲むものたちが理解不能の異国の言葉で強く自分達に何かを訴えようとも、そしてその時周りで米国の砲弾が飛び交っていようとも。テレビの前で塩せんべいを食べている自分と同程度の安全な場所に居たことにならなければならない。
だって、「僕」が彼等に「負ける」わけにはいかないんだもの。

「どうせ偽善じゃない。僕ならもっとうまく…」