コミュニケーション能力 ― 付言
昨日のコミュニケーション能力って話題で二つ言いたい。一つ目は「分り合えない者からは離れる」これもコミュニケーション能力だ。というか、前提として押さえておくべき事柄だろう。一般的なコミュニケーション能力ガラミノ本と言うのはこういった当たり前の前提をすっ飛ばすから問題がある。あたかもどんな奴とだってこの本さえ読めば、この方法さえ使えばコミュニケーションできますよ。ってな書き方がしてあったりする。そりゃ無理だ。そして更に判らなくなって、落ち込んだり萎縮したりするんだ。無理な奴とは無理。
上手い事を言ったヒトが居た。「臭いから無駄。(´ー`)y-~~。」
価値観が異なれば説得なんぞ成立しない。できる会話はその価値観の相違がどのようなものであって、その相違を尊重してお互いがどう共存できるかの模索でしかない。
価値観を自分に合わせてくれだのと説得にかかることは幼稚な病理と断じるしかない。そんな事を願った時には自分自身に問い掛けるべきだ。「なぜ自分はこのヒトに自分の価値観を判って欲しいと思っているんだろうか」と。つまり、自分自身が充分に自立できていないが為に他人に寄りかかりたいに過ぎない。
もう一つ。これはわたしのレクリェーションなので読まなくても良い。読むと損する(竹内派)
この社会でコミュニケーション能力を身につけるチャンスを逸する存在と言うのが色々とある。その内の3つを取り上げてみたい(ね、レクリェーションでしょ)。
1.専業主婦
主婦と言うのは説得の機会をあまり持たない。説得とは主に「金を手に入れる」という機会に必要とされる。主婦は「金を手に入れる」という場面からは距離を置く存在だ。逆に「お金を使う」場面に身を置く。家庭のバイヤーとして、そこにも苦労はあるのだろうが、それはコミュニケーション能力とはまた異なる。
世間話が好きで、暇があれば集まって延々おしゃべりに興じる彼女たちを見るとコミュニケーション能力が無いなどとは思えないかも知れない。しかし彼女たちの会話の中身を見ればその情報量の少なさ、またその目的の欠如に驚く事だろう。実際わたしはある機会にこの「主婦の会話」を書記する羽目になって、その議事録の内容の無さに呆れたものだ。
彼女たちの会話は結局一つの目的しか持たない、それは「仲間意識の確認」に過ぎない。そこで繰り出されるコミュニケーション能力とは追従と情動的な「安心感」でしかない。お昼のワイドショーもここに収斂するんだろう。
2.公務員
専業主婦がコミュニケーション能力を奪われている理由に「金を手に入れる」という機会がないと言ったが、彼等もまたそういう機会を失っている。確かに彼等は労働をして「金を手に入れる」という作業をしているには違いないがそれは単に時間を切り売りしているに過ぎない。幾らでも代替可能な労働は「金を手に入れる」という機会とはならない。
このコミュニケーション能力を発揮して「金を手に入れる」という機会に立っているか否かは簡単に見分ける事ができる。それは「頭を下げるかどうか」だ。先の専業主婦も頭を下げない。中には何かの関係で謝罪しなければならないような時でも「なぜあんなひとに頭を下げなければならないの」と怒る。頭を下げる事ぐらいにどんな抵抗感があるんだと思うが、もうこうなっては「コミュニケーション能力の筋肉硬化」とでもいったような症状なんだろう。
3.キャリア
専業主婦、公務員に続いて「頭を下げない」代表のようなものだ。
所謂国家公務員のキャリアだけではなく企業のエリートと呼ばれる部類もこれに入る。確かに彼等は頭が良い。交渉事もこなす事だろう。しかしコミュニケーション能力とはそれだけでもない。時折、とことんこの能力が壊れた奴が居て非常に面白い。これは何故かというと、「肩書き」という説得力に寄りかかる癖ができてしまっているんだろうと思われる。
彼等の組織、そしてそれを取り巻く周辺において彼の存在は彼そのものではなく彼の肩書きで推し量られる。彼の発言は彼のものではなく彼の肩書きから発せられたものと了解される。立場によっては神の啓示にもなるわけだ。で、その説得力を勘違いして独立してあたふたすると言う図は世間に掃いて捨てるほどある。
4.金持ち
これも「頭を下げない」。自分で考えずにすぐに福沢諭吉を使おうとする。これを繰り返していると頭が動かなくなる。そう、下がりもしなくなれば回りもしなくなるということだ。
あ。、4っつになってしまった。こういうときは「スペイン宗教裁判!」と言うと良い。
なんにせよ、人間他人から頭を下げられ始めたらよくよく気をつけないと馬鹿になる。