ことばそのものには本来何の意味も無い

警視庁覚せい剤撲滅キャンペーン用ポス


右の写真は警視庁が都内に張り出した「覚せい剤撲滅」を呼びかけるポスターだそうだ。ごらんの通りリンゴを素材にして、それが「注射」によって蝕まれていく様子を図案化している。
このポスターに対してリンゴ産地の青森などから「イメージを損なう」という反発が起き、警視庁はポスターを撤去する事としたらしい。
みずみずしいリンゴを「若者」に見立て、そのような清廉な存在でも覚せい剤によってみずみずしさが失われるのですよ。ということで、別にリンゴ自体を貶めているわけでもあるまい。(逆に、リンゴ=清廉な若者というポジティブなイメージを根拠においていると言う意味では、リンゴを賞揚しているとも言える)
しかし、それが蝕まれていくイメージが、遡ってリンゴそのもののイメージまで蝕んでいくと捉えられているのだろうか。
この話、何かに似ている。「家族」とか「CLANNAD」とか。
文化に寛容の精神が無くなれば、文化はやせ衰える。
ことばには本来何の意味も無い。ヒトは事物を捉え、それに付けられた名前で概念を構成する。今度は、その概念を言葉によって操作する。言葉によって概念が拘束される。
がんばれ id:jizou (いや、そんなにコンを詰めるな)キモイけど今回はお前さんを支持しておく。
補足:
といって、別にあのわけの判らないジャレ合いを追いかけていたわけではない。また、「本来の意味」を呈示している立論にも誤りは無いだろう。どちらにも「寛容」が無くなれば、他を圧する結果が生まれると言うだけの話だ。バンド名としてしか受け入れられないのも、ゲームの名前としてしか受け入れられないのも、どちらも言葉の本来もつ面白さである多重性を楽しめないのは残念なことだろう。