腐臭漂う閉鎖空間「俺様の王国」

昨日の事なんだが、一人の知り合いが仕事を辞めると言い出した。周囲の情報などを総合すると、前々から気にはなっていた彼女の問題が、周りの人間との関係に決定的な亀裂をもたらしたようだった。わたしなどが幾ら言葉を尽くしても、彼女に彼女自身の問題を認識させることはできなかった。すでに彼女の耳に入る言葉は、彼女を肯定する耳障りの良い言葉だけになってしまったかのようだ。

ヒトはそれぞれに立場があり、それぞれに価値観がある。あるヒトにとって何でもないようなことでも、別のヒトにとってはかけがえ無いほどの大事であることもある。足を踏んだ者には、足を踏まれた者の痛みは判り得ない。

果たしてヒトは完全でいられるだろうか。
ヒトは必ず間違える。ヒトは複数の視点を持たない。ヒトは自分の居る位置からしか社会を見ることはできない。ヒトはすべての知識を持つことはできない。また少なからぬ誤認をする。そしてヒトはその不完全な知識ですら忘れてしまう。ヒトは必ず誤りを犯す。その為に、少しでも情報を得、少しでも多元的な視点を得ることで、この誤りを減らすように勤める。

しかし少なからぬ人々はこの事に無頓着で居られるようだ。それらの人々に言えることは「視点の固着化」といったものだ。視野が狭く、固着化しているので却ってあれこれ迷わなくてすむ。自分の主観、その狭い視野からの風景を一般的な、普遍性のある「真実」であるかのように誤認したまま疑わない。そしてこの人々はそれを「ふつう」と言い「常識」と言う。

この「俺論理/私論理」は非常に強固で居心地が良いようだ。彼ら、彼女らはその中では王様、女王様でいられる。その論理の中では彼ら、彼女らを否定し、批判し、反省を促すものは存在しない。

しかしこの王国から頭を出すと、どこかで彼ら、彼女らを否定し、批判し、反省を促す事例に出会う。しかし彼ら、彼女らはくじけない。それらのものを「どうでもいいこと」「自分には関係無いこと」「意味がわかりません」などと切り捨て、また彼らの「ふつう」「常識」に逃げ込む。自分を否定するものを貶めてその価値を下げ、自分を批判するものを批判し、自分への批判を視野から巧妙にそらす。自分に反省を促す事柄には、別の理由を持ち出して自己正当化を図る。永遠に彼ら、彼女らの「俺様の王国」は不滅なままなのだろう。