NHK放送介入問題/または朝日新聞大ボケ取材問題

安倍、中川がNHKの放送に「政治的圧力」をかけたとされる問題で、NHK側が朝日新聞の報道を真っ向から否定し、さらに朝日新聞もNHKの報道に反論している。
問題は安倍、中川から離れ、NHK VS 朝日新聞の様相を呈してきているように見える。
巷間伝えられるところによると、内部告発者のNHK長井CPは朝日の記者に「記事にするのはもう一日待ってくれ」と要請したらしい。長井も報道に携わる者として自身の告発だけでは弱いと見越していたのかもしれない。
朝日は何等かのドキュメントを押さえていなかったのだろうか?当時の指示書類、メモ、メールでも良いだろうし、配車記録でも面白い事が判ったろうに。どうにも朝日新聞という報道機関の取材、調査能力が疑われる状況になってきている。
この場で朝日の言い分、NHKの言い分、そのどちらを誤りと取るか、まだ判断は下せないだろう。なにもそんなに慌てることはない。わたしは「『嘘を嘘と見ぬける』と予断を持つほど」バカではない。この段階で急いで推測から結論を出す必要も感じられない。
ただ、この騒ぎの中で「誰が何を言ったか」だけ、間違い無い「事実」として記憶に留めておくことは価値があるように思える。
そういう意味で、この文章は一読の価値がある。
NHK裁判 安倍晋三氏宛公開質問状(VAWW-NETジャパン)

ここの質問全てに頷けるわけではないが、なかなか興味深い指摘はある。


黒幕と御大からのツッコミに応えて

確かに「大衆」というものを捉えた時に、うかうかと「仕掛け」にはまっていく姿はそこそこ垣間見る。付和雷同の姿は間違い無くあるだろう。しかしだからと言ってそれらの姿を否定しさる事はできない。何故なら、それが民主主義であると思うからだ。
確かに思わず「この衆愚が!」と言わずにいられないような状況と言うのはある。しかし姿の見えない「大衆」を「衆愚」と切り捨て、独善に走る時に何かの歯車は外れる。
全体を信じ、己の批判をも再批判しつつ、「大衆」に埋没するのではなく、自分の手の届く範囲で語り合い、少しでも改善を進めていく。この道しかないのではないだろうかと思える。
高踏な論理やらも要らないし、高邁な理想の為の犠牲も見たくない。
当たり前に見える事を、当たり前に感じ、当たり前に考えてみれば、やがて当たり前に受け入れられる社会が来るのではないか。
まあ、気分の良い時にはこのぐらい楽観的に考えてもいる。