言霊の国のムラ人:松谷

折角振られたからちょっとだけ考えてみよう。某所で繰り広げられている「松永VS松谷論争が本日のお題です。(以降この論争を「松永松谷に拠るより良いネットワーク公共空間における楽を築く為の考え方に対する論争」と捉え、略して「園論争」と名付けたい)

園論争」において、何が語られているか。それは松永の「『ウォッチャー』の権利など守る必要はない」という主張に対して、松谷が「大した知識もなく不用意に『権利』の剥奪を振りかざしたあなたに、私は、基礎的な説明を丁寧にし続けてきただけ」という事になるらしい。果たして松谷松永に「権利」というものについて「基礎的な説明」をしていたか。そしてそれは正当性のあるモノであったか。検証してみたい。

松谷の主張する「権利」とは何か、取り出してみよう。

権利は誰のそれの原初的には等価で、それは各人の立場が平等だからです。近代社会において、それは基本的な理念で、ここを無視することはできません。[松谷No.21]

つまり松谷は「誰の権利も等価であり、誰の立場も平等である」とみなしている。はたしてそれは正しい社会のありようだろうか。
そもそも松谷自身が松永に「『「ウォッチャー」の権利など守る必要はない』などとはいってはいけない」と松永の「権利」を制限するとしたら、自己矛盾ではないんだろうか。

ここにおいて松谷の二つの次元の異なる問題が露わとなる。
1.意見を述べることが即ち「侵害」に当たり、「権利の行使」の障害となるか。(言霊問題)
2.果たして「権利」は所与のものとしてすべての人に与えられているものだろうか。(義務教育の誤りの問題)

松谷はこうも言っている。

自分とは相容れない他者をいかに許容するかが、近代社会の維持には不可欠です。[松谷No.21]

これはその通りで、様々な価値観、視座を持ったものの存在を認めることでその社会は生き残り成長する為のバリエーションを用意できる。これは何も近代社会だけではなく古代社会においてもそうであったと予想される。一定の農耕が生産効率を高めるからといってその農耕だけに依存した社会はその耕作物の不作で存続の危機を迎えかねない。この時に少々は生産効率が悪くとも狩猟、採集のチャネルを維持しておけばその社会は生き延びる可能性を高めることができる。近代以降においては、こういった社会に対するバリエーションの姿が「言論」という形をとり易かった。であるので近代社会においては様々な言論を社会の中に熟成し、抱え込むことでその社会は柔軟な生き残りへの道筋を模索することができることになるわけだろう。
つまり、如何様な言論であれ、その存在を認める(肯定するという意味ではなく、単純に存在を認める)事が社会を防衛していく上においてより確かな戦略となるのである。
とするならば、上でわたしが「松谷の問題、その1」として挙げた理由が明白になる。社会はその自己防衛の為にどのような言論であれ存続を認めておくべきだ。その中に「『ウォッチャー』の権利を守れ」という言明もあって良いし、「『ウォッチャー』の権利など守る必要はない」という言明もあっていい。更に「『「ウォッチャー」の権利など守る必要はない』などとはいってはいけない」という松谷の言明もあれば良いのだ。
故に松谷の「『「ウォッチャー」の権利など守る必要はない』などとはいってはいけない」はこの言明のままでは間違ってはいない。彼が斯くいう「ウォッチャー」であり、松永の批判に対する当事者の反論として主張するのだとしたら論理的にも矛盾はないし問題もない。(ただ、実際にはその権利は守られない、誰も守るインセンティブを持たないからだ)
しかし、上で見てきたように松谷のこの主張が、多様な言論の在り様をその論拠としているとしたら、それは単純な論理矛盾を含む。

なぜ、このような論理矛盾が起きるのか。それは松谷の「自由」というものの考え方に誤りがあるからではないかと思われる。

松谷は次ぎのように述べる

「他者の自由を侵害する自由」だけは、認められないのです。なぜなら、これを認めると、「自由」が機能しなくなるからです。[松谷No.28]

わたしは「問題1」を(言霊問題)と名付けたが、松永は「自由を侵害」しているのだろうか。彼は彼の所信を言明しているに過ぎずそれは実行力としての力を持ちはしない。逆に松永の言明を力あるものとして受けとめているとしたら、そういった「同調圧力」に左右される松谷自身が「ムラの論理」に縛られているだけなのではないだろうか。
この「園論争」の中で松谷は独特の「ムラ社会観」を展開しているが。「同調圧力」を加えることを「ムラ社会」とみなし、上で述べたような「多様性」を尊重することを「近代社会」としてみよう。では、松永の述べたような「〜の権利など認める必要は無い」という<言明>は「ムラ社会」の倫理であり「近代社会」では<許されない>のか。このような言明でもその存在を認める事が多様性を担保し近代社会を形成できると思うがどうだろう。この場合「〜の権利など認める必要は無い」という言明に実効性を伴った同調圧力を加えるならばそれは「ムラ社会」となるのではないだろうか。言論と実行の間には雲と泥の差がある。言論をビビットに捕まえて、そしてそれを鵜呑みにして実効性のある圧力と捉える。まるでマントラか呪文のように言論を捉えるとすると、それはデリケートに過ぎるし、そのデリケートさが「ムラ社会」そのものを形成しているのではないか。ムラ社会の持つ「忌み言葉」を自己生産してどうするんだろうか。論考が浅くはないだろうか。

さらにこのような発言もあるわけだ。

誰かひとりかが正しく、誰かが間違っている、なんてことを決めてもここでは仕方ないのです。
そのようにCさんの権利を無視することとは、ムラ社会的な発想といえます。そして、そのような主張が吟味なく通ることになれば、それはたんに「公共の利益を維持するための技法」ではなく、「ムラ社会の掟」となってしまいます。
私はそれには極めて反対です。[松谷No.21]

果たして「Cさんの権利」を松永は無視しただろうか。彼は「無視せよ」といっているが、Cさんはそのような発言があろうと松谷ほどデリケートでなく、近代的でソフィスティケートされていれば自分の「権利」を行使するだろう。「権利」とは果たして所与のモノとしてあるのだろうか。ここに松谷の浅さがある。議論の立脚点が間違っている。彼は、「『権利』というものについて『基礎的な説明』をして」いると言っているが、その松谷の理解する「権利」概念が彼独自の物であり、例えばわたしには受け入れることが出来ないし、松永とも食い違っているんだろう。つまり、議論の食い違いは松谷本人にある。考えてみよう。「権利」とは果たして何か。
生きる権利、幸福を追求する権利、参政権、男女の同権。これらは所与の物としてあるように見えるが本当は違う。否定の否定として顕れる概念に過ぎない。つまりヒトが生命の危機に晒される時に「そのヒトの生きる権利」がたち顕れてくるのだし、誰かが幸福を追求し続け壁に突き当たった時に、その壁が「幸福を追求する権利」とどのような関連があるか正当性が試される。参政権もその前の政体の議論からはじまって、どのような形で「参政権」を得るかという、つまりは「参政権」を得られない者(そのような政体すらない者も含めて)があるからこそ「参政権」という概念が問題となる。男女の同権も一緒だろう。男性と女性で差があるからこそ議論になる。そこに差が(時には女性に認められて男性に認められないという逆転した問題も含めて)あるから議論の対象となり「権利」という概念が生まれる。
つまり所与として誰の「権利」なるものも最初は「無視」されているのだ。保障などされていない。そのような中で当事者が勝ちとって行くものが「前権利状態」とでもいったもので、例えば単に産まれれば「生きていく」事ができる、というに過ぎない。やがてこの単に生きていた人間が奴隷商人に捕まり、奴隷市場で売られたとしよう。こうなってくると彼の生存は非常に危うい。そして時が移り奴隷たちが自分たちも商人も、そして奴隷を雇うものも皆同じ人間ではないかと、それらの者と同等に自らの生きる事を主張したとしよう。その主張が「権利」であり、その「権利」が社会の中で広く認められれば今度はその「権利」に歯向かう者が現れた時に、その「権利」を自らの基盤としている者が説得し、ある時は強制し、守るという事なんだろう。
つまり「権利」なるものは、先ずは誰かの政治的主張に他ならない。
そして、それが常に広く社会に同意されているわけではない。

以前に書こうと思っていたが、小中学校の教える嘘というものがあり。

  • 何か「正義」というような絶対の真実がある
  • ヒトは生まれながらに平等である

という二つの誤りから逃れられていないように思える。




「公共の利益」とは

本来的に「公共の利益」というのは、これらさまざまな立場の方々の権利を平等的に扱い、その上でバランスを考えて決められていくもの[松谷No.21]

「公共の利益」の前に「公共空間」を考えてみよう。ヒトはそれぞれに空間(私的空間)を持つ。これは物理的なものとしても、そして概念的なものとしてもありうる。ヒトはそれぞれに欲求を持つ、それが社会性を持っているとすれば他者との調整を要するが故にそれらの主張はすべて「権利」という形をもって表明されるかもしれない。もしも松谷の上記のような論考が実体であるとすれば「公共空間」というのは相互の「私的空間」の「積」すなわちお互いの重なり合った空間を表すように見える。つまり利害の一致点とでもいったもののように見える。
わたしはこうは見ない。「公共空間」とは「私的空間」が到達しえない場所とみなす。



「公共」ということから考えてみよう。
「公共」という言葉は主に次のように分類できるだろう。

  1. 公共事業などといわれるように、国家が関係する公的なものという意味。
  2. 公共の福祉、公益、公共の秩序、公共心などの特定の誰かのものというわけではなく、共通のものという意味。この意味での「公共性」は特定の利害に偏していないというポジティブな含意をもつ反面、権利の制限や「受忍」を求める集合的な力、個性の伸張を押さえつける不特定多数の圧力といった意味合いも含む。
  3. 誰に対しても開かれている。という意味。誰もがアクセスすることを拒まれない空間や情報、公然、情報公開、公園。

この内松谷の捉える「公共」は2に留まっているのではないか?
そしてそれが「権利」という政治的局面で捉えられる場合、より「受忍」「抑圧」の方向が先鋭化すると思われる。実際今回松谷が松永に突きつける「〜であるべきでない」という主張は松永にとって「抑圧的」であり松永の「受忍」を期待するものとなるだろう。

「『各人をして彼が真実と見なすものを語らしめよ、そして真理そのものは神に委ねよ』(ゴットホルト・エフライム・レッシング)共通世界をめぐる言説の空間としての公共性からは、絶対的な真理は排されている。この空間は『人びとの言説の尽くしがたい豊かさ』が享受される場所であり、単数の真理が人びとの上に君臨する空間ではない。公共性は真理ではなく意見の空間なのである」(「公共性」斎藤純一 岩波書店:思考のフロンティアpp.49)

アイデンティティ(同一性)の空間ではない公共性は、共同体のように一元的・排他的な帰属(belonging)を求めない。公共的なものへの献身、公共的なものへの忠誠といった言葉は明白な語義矛盾である。
(中略)
 このように公共性は、同化/排除の機制を不可欠とする共同体ではない。それは、価値の複数性を条件とし、共通の世界にそれぞれの仕方で関心をいだく人びとの間に生成する言説の空間である」(前掲書 pp.6)

すなわち「共同体」(ムラ社会)として強調圧力をかざしていたのは松谷においてであり、松谷のそのメンタリティこそが「近代の多様性を受け入れる社会」と対立するものに他ならない。松永の当惑は当然のことなんだ。

(未了)