「無痛文明論」という無痛化

無痛文明論」という論考がある。参照
出版前にWeb上でドラフトが公開されていたのでその頃から追っかけていたし、あちこちで言及してきた。それまでにも自分自身「痛み」というものに非常に興味があった。興味の淵源とそれ以降のストーリーはまた何等かの形で残したいと思う。
ここでは簡単に触れる。
そもそも「文明」というものは「無痛化」を推し進める。というよりも「痛みからの脱却」が「文明を築き上げてきた」といえるのだと思う。わたしの好きな小説に「白い巨塔」という作品がある。いままたテレビドラマ化されて好評を得ているようだけれど、この作品の中で山崎豊子は作中の里見にこう言わせる。
「医学は祈りだ」
家族や愛するヒト、それら大切なヒトが痛みに苦しんでいる。それをなんとか和らげてあげたい。それが祈りとなり、様々な「まじない」となり、その中でやがて薬草に突き当たり、医学となってきた。事は医学だけではない。すべての科学技術、科学文明はこういった祈りの先にある。遠く離れたあのヒトに逢いたい。あそこに行きたい。もっと強い力でこれを運べたら。これを砕けたら。そのものズバリ森岡が批判する「身体の欲求」が祈りを産み出し、文明を築き上げてきた。
わたしは森岡のように「身体の欲求」を無下に否定できないし、逆に彼の賞賛する「生命の欲求」にも怖さを感じる。ヒトは堕落する事に喜びを感じ得る。ドストエフスキーが「賭博者」などで描く堕落、渡辺淳一が「失楽園」で描く終末。そこに確かに「生命の欲求」と輝きは或いはあるのだろう。しかしそれら破滅的な輝き、タナトスの輝きに怖れを感じる。
森岡が良心的なヒトであろう事は文章から読み取れる。しかし彼の作品である「無痛文明論」は隘路に行き着く危険性を感じる。「無痛文明論」とは「身体の欲求」が無痛化に厭いて、その「終わり無き日常」からの脱却。その「無痛化の痛み」からの逃避を模索する中で掴み取られているのではないだろうか。

まだ書きたい事はいろいろあるけど、今日のところはこのへんで。