論理2

「論理なんて道具ですよ、
  偉いヒトにはそれがわからんのです」

論理そのものに政治性はない。論理とはシンタックスの問題であり、そこにあるのは正しいか誤っているかだけしかない。原子爆弾を破裂させようとする。この時不幸にも、または幸いにも回路に不具合があって上手に原子爆弾が破裂しなかったとする。この故障した回路が論理でありそこに誤りがあった。原子爆弾を破裂させようとスイッチを押した、これが政治的行動でありこの行動が誤っているか正しかったか、このままではどちらとも決められない。先ず前提となる価値観があり、その価値観を基準として政治的行動を推し量らなければ政治的行動の正否は計れない。この前提となる価値観自体に相違が在れば議論は成り立たない。相互に自分の持つ価値観の深度を探る行為を行うしかない。
そして結果として原子爆弾は破裂しなかった。これが正しかったか誤りであったか。これも推し量れない。確かに政治的状況においてはすべては結果で推し量られる、ある価値観に対してこの結果が正しいか誤っていたか。つまりは結果が良かったか悪かったか。それは決定できるだろう。しかしスイッチを押すという政治的行動、意図と、結果である政治的状況をつなぐ論理が誤っているとしたら、それは未決定であるとみなさざるを得ない。
無茶苦茶な意図に対して、無茶苦茶な論理を積み上げて、それでも結果として幸運にも状況が良ければよしと。そうは思えないだろう。

(ここで、論理的整合性を持たないものへの「信頼性」を書いた方が良いんだろうか?)

しかし、実は状況はここまでで終わらない。
原子爆弾を破裂させるという物語は、幸いにも/不幸にも爆弾が破裂しなかったという事実までで終わりはしないだろう。それ以降この結果を因として次々と意図が産まれ、果が連鎖していく。それらの連結の中で政治状況は様々に評価され、毀誉褒貶されていくだろう。
わたしの価値観からすると、
常に政治的意図は明確であり、
政治的行動は明確であり、
論理は透明であり、
その結果としての政治状況は不明確であるだろうが、その責任は負うべきだ。つまり、この結果としての状況を負う意思の力が意図を担保し、権限を産み出す。状況に投げ込まれた価値観と論理はその状況の中で不確定要素に晒される。

例えばイラク問題。決断に際して小泉が「大量破壊兵器の存在」を確信していたとすれば、その確信はあやふやな情報の上に立っていた事となる。つまり小泉は自らのメールマガジンで断言した大量破壊兵器の存在を自ら立証するか、己が誤認した理由を明確に述べるか、己の誤認を導いた情報源を明確にし、このような誤認が起きないように努めるべきだろう。
これは米国のイラク攻撃が正しいか誤りか、自衛隊の派兵が正しいか誤りかの問題ではない。日本の総理が自らの決断に際し、どのような種類の情報を判断材料としているかの問題である。そしてそれが誤っていた場合、どのように日本政府はその誤りを回復するかという問題なのである。
つまり政治的価値観の問題ではなく、政府というシステムにおける論理的整合性の評価なのである。