歴史に学ばないものは馬鹿である

小中学校への携帯電話持ち込みをめぐって、うんざりするような議論が起こっている。

携帯禁止 家庭でも厳しいルールを(産経ニュース 主張)
いま考えたい―子どもにケータイは必要か(IT media)

携帯の一律禁止は問題(YOMIURI ONLINE)


元々は橋下大阪芸人知事の禁止令に端を発した騒ぎらしいが、まったく的を外し、原則が見えていない議論ばかりでイライラする。歴史に学ばないものは馬鹿であるとするならば、右から左までこの国は馬鹿の集まりなのかと疑いたくなる。

持ち込み禁止賛成派の論点は、
1)携帯電話の利用時間と学習時間はトレードオフにある。
2)携帯に付いているメール、インターネット閲覧機能が「学校裏サイト」など、いじめの温床となっている。
3)また、それが性犯罪などの入り口となる危惧もある。

といったようなものだろうか。

それに対して、子供にも携帯を持たせる事を容認すべきとの意見の論拠として、携帯電話の防犯機能などに触れているものもある。


学習の時間に携帯を弄っていて学習が進まないとしたならば、それは授業で指導すべき事柄だろう。そもそも、子供たちが学習に集中できず、携帯電話を弄っているのだとするならば、携帯電話を取り上げたところで、彼らは別の興味の対象を探してそちらに気を散らせ、やはり学習はおろそかになっていくだろう。
これは携帯電話の問題などではなく、「ゆとり教育」の問題の時も、というか、そもそも教育の根幹的課題として着目されている、教育における児童、生徒のモチベーション(学習意欲)の問題ではないか。そして、それは授業技術など、教える側の問題でもある。
学校への携帯電話持ち込みに対して、この論点から「持ち込み反対」を訴える者は、すでにこの段階で「馬鹿」と認定できる。

次に、メールやらインターネット閲覧機能が「いじめ」の温床となる。であるとか、「犯罪の入り口となる」といった議論。これは「新しいテクノロジー」に対して、社会が常に取る態度であって、定型的な「そぶり」でしかない。
まず、「いじめ」であるとか「犯罪」は、携帯があろうとなかろうと常に起きている。携帯電話という新しいテクノロジーがその発生を助長しているとするならば、それに対しては社会学的な調査が必要であろうし、各キャリア、メーカーなどは対策が必要だろう。しかし、よしんば携帯電話がそれらの発生原因であったとしても、出来上がったテクノロジーはなかった事には絶対にできない(このあたりは、テレビというテクノロジーが普及した頃に、「国民総白痴化」と心配された事例が思い出される)。また、そもそも「いじめ」であれ「犯罪」であれ、それが深刻であればあるほど、どんなに制度で抑制をしたところで地下に潜っていくだけだろう。

今、小学校やら中学校に「刃物」を持って行くことは非常識なこととされているようだ。わたしの子供の頃は筆箱に刃物が入っているのが当たり前だった。といっても、別に殺伐とした社会であったから護身用に道具をノンでいた訳ではない、当時わたしたちの筆記用具といえば顔料として黒鉛を含んだ細い芯を、木でできた軸で包んだ「鉛筆」というものが主流であり、それを利用するためには、芯の減り具合に合わせて軸である木を削る必要があった。その為に、「刃物」は必需品だったのだ。「刃物」を使って鉛筆を削るため、当時は誰しも切り傷の一つは二つは指につけていたものだ。だから当時は「刃物」でヒトを刺すというような事件が起こらなかった…なんて(ノスタル馬鹿おやじのような)ことは言わない。当時もそりゃあ刃傷事件の一件や二件はあっただろう。しかし、現在のように、公に「学校に刃物を持っていくことは非常識」とされ、場合によっては法律で処分される対象となっても、やはり刃傷沙汰は校内で起きている。
 刃物がヒトを刺すのではなく、ヒトがヒトを刺すのだ。(とは言え、全米ライフル協会の主張する、銃はまたあまりにも話が違うが)
いま、学校に携帯電話を持ち込めなくなっても、「いじめ」はなくならない、形が変わるだけだろう。「犯罪」もなくならない。「犯罪」に向かうような児童、生徒は、学校やら社会が抑制しても、いや、抑制すればするほど、携帯電話を持つだろう。

今の携帯電話はわたしには「半製品」に見える。内燃機関の前の蒸気機関。現在のテレビの前の白黒テレビやラジオのような存在に感じられる。真のイノベーションはこの次に来る。
イタ村健の騒いでいた「ユビキタス・コンピュータ」の為のインフラ整備にも思える。
このような時代状況をみると、学校が行うべきは携帯電話の持ち込みを禁止して、学校と携帯電話に代表されるコミュニケーションツールとの付き合い方(情報リテラシー)を切り離すことだろうか。それとも、学校が率先して児童、生徒にコミュニケーションツールを使わせ、その使い方、危険性を教えることだろうか。解答は明白だろう。

親もわからないまま、または得体の知れない存在として「携帯電話」を捉え。小学校、中学校と子供たちは「携帯電話」から遠ざけられて育てられる。そして、その危険性も、有用性も知らないまま高校生として「携帯電話」を手にする。としたら、その危険性は想像するに難くない。

19世紀、蒸気機関で動く「自動車」ができたころ、英国はその「新しいテクノロジー」の存在を恐れ、「自動車で走る時は、その前に先行する者を走らせ、赤い旗を持たせること」という法律を制定した。英国の自動車産業の発展を妨げ、今なお笑い物にされる悪評高き「赤旗法」である。
情報リテラシーがこの21世紀の大きな産業基盤であると考えると、「携帯電話悪玉論」とでもいうべきこの風潮は「21世紀の赤旗法」になりそうな気がする。そして、「情報産業大国日本」は、没落してゆくのだろうか。



知らなかった!

首相「7割の宗教で労働は罰」 日本は「善」と認識

 麻生太郎首相は7日の熊本県天草市での演説で、高齢者雇用問題に触れた中で「世界中、労働は罰だと思っている国の方が多い。旧約聖書では神がアダムに与えた罰は労働。旧約聖書キリスト教イスラム教、足したら世界の何割だ。7割くらいの宗教の哲学は労働は罰だ」と述べた。日本については「天照大神高天原を見たら神々は働いていたと古事記に書いてある。我々は働くのは正しいと思っている」と指摘した。(07:52)

日経NET

宗教とは距離を置いているので、キリスト教が、「労働とは神が与えた罰」であると捉えているとは知らなかった。ぼんやりと、資本主義の成立条件として、資本の蓄積と労働があり、これがピューリタンの精神と合致しており、初期米国の資本主義的発展につながったとは了解していたが。でも、ピューリタンプロテスタントなわけで、カソリックではやはり「労働とは神が与えた罰」なのかなあ、と、その出典を探ってみた。
「労働は罰?」† (WEB版★牧会短信 † 2008.12.08 Monday)
創世記
などを見ると、どうも違うみたいだ。安心した。

ところが、
ウィキペディア「労働」
では、「旧約聖書によれば、労働とはアダムとイブが罰として神より与えられたものである」との記述がある。まさか、一国の首相がウィキペディアからの引用?
しかし、ここにもユダヤ教プロテスタントについての労働観は異なるとの記述がるので、首相の発言とは食い違う。

いったい麻生はどこからこんな話を拾って来たんだろうか?

こんなヒトもいた。
Yahoo! 知恵袋

労働とはアダムとイブが罰として神より与えられたものであるらしいのですが、働かないで暮らせる事は幸せなことでしょうか?

この質問者は否定的に質問しているのだとは思うけれど、この首相の発言をつまんで労働を否定的に捉えるようなヤカラが出てこないことを祈る。

…米国なんかでは、大統領といえば、国の父というような捉え方をするのだけれど、一家の父がこんな事言っていたら問題だよな。

お嬢様の混乱

昨日は週刊文春の記事を引いたが、今日は週刊新潮からちょっと面白いコラムを取り上げてみたい。田母神論文でも触れられている当の櫻井よしこ(以下、お嬢様)が連載コラムを持っていて、ここでお嬢様が「文民統制、曲解された日本の解釈」と題していささか混乱した議論を進めている。
特に酷い部分を取り上げてみたい。「ヒトラー文民統制」と題された部分である。( )で囲まれた部分は、引用者であるわたしの記述である。

しかし、文民統制とは一体何か。日本政府は、「軍事に対する政治的優先または軍事力に対する民主主義的な政治統制」と定義している。(平成20年版 防衛白書 第II部 第1章 第3節など)そのことは、軍人である田母神氏の考え方や意見を、政府見解にぴったり合わせなければならないという意味か。『朝日』の主張などを見ると、当然、答えは「イエス」であろう。つまり、自衛官村山談話などに示される政府の歴史観に異を唱えずに従うべきだということになる。そのことは軍人が政府によって、完全に思想も行動も統制されるということだ。いま私は、田母神氏を軍人と書いたが、氏の位置づけは行政官で、基本的に他省庁の公務員と同じである。となれば、公務員はすべて、政府見解のように考え、その枠内で思考しなければならないのだろうか。(ここまでを 節1 とする)
 そうではないのである。『朝日』は五百旗頭氏の言葉を引用して、軍人が自らの信念などで行動することは極めて危険だと書いたが、軍人こそ考える能力が必要だ。盲目的に、絶対的に時の政府に従うことは、恐らく、日本人が軍の在り方の理想として語る文民統制に必ずしもつながらない。わかり易くするために、敢えて極端な事例を拾ってみる。ヒトラーは堂々たる選挙で選ばれた。ヒトラー総統にドイツ軍は従った。選挙で示された民意を代表するヒトラーが統率したという意味で、これもひとつの文民統制とするなら、文民統制の言葉そのものが民主主義国家の求める軍の理想形であるとは言えないであろう。だからこそ、国際社会には文民統制の考え方について明確な定義がないのではないだろうか。(ここまでを 節2 とする)

お嬢様ご本人も「敢えて極端な例を」とおっしゃっているが、このヒトラーの例は酷い。これはレトリックのサーカスのような、文章の曲芸だ。ただ、論理は破綻しており、曲芸であるなら着地失敗といったところだろう。
お嬢様は、「文民統制」という概念を否定するが為に、ナチス・ドイツの例を引かれている。その論理構造はおおよそ次のようなものだろう。
1)ヒトラーは民意で選ばれた。
2)その民意で選ばれた「文民」であるヒトラーに統率されて、ナチス・ドイツの軍隊は行動した。
3)しかし、結果は国を失った。
4)文民統制とは民主主義国家の求める軍の理想形であるとは言えない。

しかし、実はこの(1)と(2)の間にはワイマール憲法の停止という国家変革がある。これは中学で確か習ったと思うのだけれど、ナチス・ドイツというのは「国家社会主義」を唱えており、「民主主義国家」という枠組みでは語れない。「全体主義」の範疇に入る。中学校の歴史の先生は「ワイマール憲法という民主的に進んだ憲法が、ナチス・ドイツという全体主義国家を生んだ」といったような指導をされて、民主主義を守るためには憲法という枠組みだけではなく、それを運用する国民の意思が必要なんだというようなことをつらつら思ったような思い出がある。更に進んで、今では、逆に、このような危険な「全体主義」にも道を開けられる、つまり、自己変革の可能性を秘めた「民主主義」の柔軟性が、他の政体よりも比較優位であるとわたしは思っている。まあ、これは余談。
つまり、ヒトラーの例を持ち出したところで「民主主義国家の求める軍の理想形」を語ることはできない。
民意→全体主義文民統制→破綻
民意→民主主義の文民統制→成功もあれば、失敗もある。
という図式があった場合、「文民統制」自体が問題であるというよりも、政体として「全体主義」が正解か、「民主主義」が比較優位か、という話にしかならないではないか。

そもそもお嬢様は「国際社会には文民統制の考え方について明確な定義がないのではないだろうか」と仰っているが、どうなんだろうか、先に引用を指摘したこの定義であるところの「防衛白書」は読まれているのだろうか。そこにはCOLUMNとして別枠を設け、特に「文民統制」について語られている。
先の大戦において、「統帥権」の暴走により、この国は文字通り滅亡の淵に瀕した。この経験を踏まえ、「文民統制」の重要性が唱えられているのだけれども、その敗戦の痛みが遠のくとともに、このような暴論が走り出すのは単なる「歴史に盲目」となっているとしか思えない。

もしも、「軍人こそ考える能力が必要だ。盲目的に、絶対的に時の政府に従う」必要はない。と考えられるのならば、想像されるといい。自衛隊が現政権を否定して永田町から霞ヶ関を包囲し、軍政を引く姿を。その時、その軍政はいまのような「資本主義」「日米安全保障体制」を支持するとは限らない。どのような政権ができるか、軍人が考えた国家運営がどのようなものであるか、わたしには想像もできない。しかし、少数者が狂信的な理想から打ち立てたような集団/国家は、そら恐ろしい物になるであろうとは推測できる、そう、ぼんやりと朝鮮半島の北側の国を連想する。この論理構成が朝鮮半島の北側にも着地できることを思えば、論理の破綻は明白だろう。

次に、節1の主張は、「公務員はすべて、政府見解のように考え、その枠内で思考しなければならないのだろうか」ということであろうが、これについてのわたしの意見はすでに書いた。お嬢様はつまり、自衛官にも言論、表現の自由はあるとご主張なさりたいのだろうが、しかし、お嬢様の混乱は酷すぎる。お嬢様はご自身のブログに次のようにお書きになっている。(「 『教育』が危ない 」2007年03月08日 初出は同じ週刊新潮のコラムのようだ)

分限をわきまえない自由は真の自由でも独立でもなく、わがまま放蕩で許されない

つまり、教職員に対しては、その思想信条を考慮せず、政府方針に従えとおっしゃっておいて、田母神に対してはその自由を認めろとおっしゃる。一体どちらが正しいのだろうか?何が自由であり、何が放蕩であるか、明確な境目がわたしにはわからない。

腐っても大勲位?

写真は「庵。」のボギー吉村

今週発売の「週刊文春」に面白い記事が載っていた。

ある日、中曽根康弘元首相は、麻生首相の思想を紐解くべく、かねてから麻生氏が「勉強になる」と公言する漫画『ゴルゴ13』を取り寄せた。書斎で中曽根氏がパラパラとページをめくると、(中略)
 中曽根氏は立ち上がるや、書斎を出る時に一言こう言い残した。
「(麻生氏は)バカだねー」

その人物を知ろうとするときに、その人物の書いたものを読むというのは有効だが、その人物が好きだと公言する著作を読むのも有効な手段だろう。そういう意味では大勲位中曽根もなかなか押さえる所は押さえる人なんだなと推察できる。
確かに、記事で大勲位中曽根は「バカだねー」としか言ってはいない。なので、麻生フォローワーなどは、「中曽根は麻生をバカと言っているわけではなく、著作に対して言っているのかもしれないじゃないか、それをあたかも中曽根が麻生を名指しで『バカ』呼ばわりしたかのように書く週刊文春こそ世論を誘導する意図がある、これは週刊文春のバックについているユダヤ石油資本の…」てな解釈でもするんだろうが。
自分の推察を言うなら、この様子を見ていた記者なりが「大勲位、そのバカというのはどのような意味で?」とか確認した際に、「麻生君に決まっているじゃない」と念押しして、「君、記事にするのかい?」「ええ、機会があれば書きたいと思います」とか言われた大勲位が「じゃあ、わたしが『バカだねー』と言った事はそのまま書いても良いが、麻生君はという部分は括弧書きにでもしておいておくれよ」それを受けて件の記者氏は「つまり、大勲位が麻生氏を批判したという部分は、自分の解釈でということにしておくのですね」「そうそう、わたしにも逃げ道を用意しておいてくれ」とかってやり取りがあったんじゃないかと思う。
と、いうか、これくらいのやり取りは無言でできなけりゃぶら下がりはできないだろうから。
本当のところは、パラパラとページをめくっていた大勲位が記者がいるのもはばからず「麻生君はバカだねー」とひとりごちたのを受けて、記者氏が自分の判断で「(麻生氏は)」と記者の判断であるかのように大勲位に逃げ道を用意して、そのまま記事にしたんじゃないんだろうかね。

(と、このぐらい文章を書けば、引用よりも多いから良いだろ)

官尊民卑のダブルスタンダード

早いものでもう12月、師走である(おお、なんと陳腐な書き出し)
この時期になると年賀状を書きだしたり、住所の確認をしだしたりするヒトも多いだろう。(最近は個人情報保護法のお陰で、この住所の確認が面倒この上ない)

そして、年賀状といえば、毎年のように配達員が怠業して配らなかった年賀状が発見されたりもする。
このような怠業をすると、郵便法で明確に罰則が規定されており、それが適応されれば塀の中でしゃがむこととなる。

郵便法
(郵便物の取扱いをしない等の罪)
第79条 郵便の業務に従事する者が殊更に郵便の取扱いをせず、又はこれを遅延させたときは、これを1年以下の懲役又は30万円以下の罰金に処する。
2 郵便の業務に従事する者が重大な過失によつて郵便物を失つたときは、これを30万円以下の罰金に処する。

ところが、今回とんでもない <事件> が起こった。
梅田駅に郵便物放置、12万通のうち「ねんきん」4万通余(読売新聞)
ねんきん特別便4万5千通、JR貨物梅田駅に2カ月放置(朝日新聞)
郵便事業会社:ねんきん特別便4万5千通、2カ月間放置(毎日JP)
ねんきん特別便4万5000通が不達 JR梅田駅に2カ月間放置(MSN/産経ニュース)
ねんきん特別便、数万通が未着 郵便会社が配達ミス(日経ネット)

朝、テレビのニュースで聞いて、一瞬理解できなかった。民間では考えられないような出来事だろう。

この件では、厳正な罰が加えられなければならないだろう。と、言っても、厳正な罰を求めると、より陰湿な隠ぺいが起こったり、この場合などは下請け業者に責任の押し付けが行われたりするだけだろうとは思うが。

ここに、ずらりと各紙の記事を並べてみても、お詫びがどうのというだけで、この罰則、責任の所在には触れていない。後追いで報道もされるのだろうが、ぜひ厳正な追及がなされるように望む。

郵政会社は、あたかも入れ違いで民間企業となったが、官と民への追及において民よりも官への追及が緩いとすれば、その不満はどこかで暴発を引き起こすだろう。



12月12日追記
「マスコミ報道では分からない内実 日本郵政年金便放置の深刻」(J-CAST 2008/12/11)によると。

関係者の間では「日本郵政として今回の未配達問題は、郵便物の輸送を委託した運送会社の問題と見ているのではないか。日本郵政としては、むしろ被害者意識が強いのではないか」の声も漏れる。

とのことだ。この観測が的を射ているとすればとんでもないことだ。なんと幼稚な組織というほかはない。

情報に対する立ち位置について

11月21日のodakinの投稿に思うところを少々。
別に弁明の必要も感じないし、「腐っているね」という言葉も、まあ、確かにそうだろうね。としか言いようがない。元々アングラ(ウングラ)の掲示板であるあめぞうの固定として発言し始めてからこの方、「腐っている」というような趣旨の言葉は散々浴びせられてきているわけだが、その言葉を返上するような事は何もしてきた思いがない。というか、そもそもできないだろう。

「価値相対化」と捉えられるかもしれないが、わたしは人間が満遍なく「真実」を認識できるなどとは思っていないし、多分実態としても全ての人間がこの世界というものを、少しずつ偏った視点からしか捉えられていないと思っている。

そのような中にあって、何が言え、何が言えないかを指摘したいという気持から、自分は文章を書いているんじゃないかと思う。

なので、主な主張である「腐っているね」という言葉は、そのまま受け止めることとする。しかし、odakinに一言申し添えるのなら、この言葉を選択し、ここに投稿したという「事実」だけは忘れないでいただきたいと思う。なぜ、この言葉をチョイスし、投稿するに至ったか。ここは自分としても非常に興味があるのだが、それはodakinにしか判らないだろう。


総会屋が汚いか綺麗かもわたしはわからないが。(つまり、保留しておくが)「ノーパンしゃぶしゃぶ楼蘭」 顧客名簿 」へのリンクが、その「仕事の片棒を担ぐ」というような意味ではないだろうとは思う。

ただ、誤読というのは、読み手と書き手の双方に問題があるもので、確かに文脈として捉え難いものがあっただろう。

この「ノーパンしゃぶしゃぶ」というのは、呆れた官僚の実態とでもいうものを象徴的に示すもので、これがすべてではない。それは当時の報道を追っていた人ならば共通して把握できる「文脈」であろうと思っていたが、そうはいかなかったらしい。
何も、官僚がノーパンしゃぶしゃぶの接待を受けた。ぐらいで国は傾きはしないだろ。それよりは、それに象徴される官僚の省益、局益、更には私利私欲の追及は国を危うくする。
この国には蓋棺によって、その人物を聖人君子のように扱う文化がある。確かに、反論不可能な死者に対して批判を投げかけるのはあまり生産的なことででないだろうと思うが、しかし、だからといって「あった事をなかった事」とすることもできない。(ノーパンしゃぶしゃぶに行ったという言を言っているわけではない、その当時の接待習慣が蔓延していた官僚の世界に籍を置いていたという事を言っている)


事件も、犯人(と思われるもの)が自首してきて。少しずつ実態が現れてきているけれども、その中で、行き過ぎたマスコミの官僚批判が、このような人物を生んだ。というような論調がある。そして、マスコミに官僚批判を自重するというような発言もある。

逆だろう、というよりもまったく話が違うだろう。

そもそも、マスコミの発言を真に受けて「官僚はマモノ」などという思い込みを生んだこと自体がナイーブに過ぎる。
そして、敵/味方の二分法。

この未成熟、ナイーブさはどこから来るのか。それに興味がわく。

ちょっとしたメモ

公務員制度改革についてあれこれ見ていたら、ほかでもない、はてなのキーワード内閣人事局に行き着いた。

ここで「(内閣人事局の)スタッフは民間から採用」とあるのは、現状の議論の流れでは誤りで、「スタッフは民間からも積極的に採用」とでも表現するのが正しいのではないだろうか。

根拠:
国家公務員制度改革推進本部顧問会議 報告(平成20年11月14日)

3.内閣人事局の担うべき機能及び組織のあり方について
(3)組織のあり方
(略)
内閣人事局には、高い能力を有する民間人材を積極的に登用する。また、各府
省出身の幹部職員については、出身府省に原則として戻らないものとする。

行政改革推進本部事務局・国家公務員制度改革推進本部事務局
公務員制度改革資料(公務労協)

年金テロ? −重みと緊張感

元厚生事務次官の山口剛彦夫妻と吉原健二の奥さんが殺されたらしい。ともに年金に関わっていたらしく、「すわ年金テロか?」と睨まれている。

テロも戦争も政治の一形態である。戦争が対等な、または対等に近いもの同士が行う政治形態であるのに対し、テロは非対称の者が行う、つまり「弱者」が「強者」に対して行う政治行動だ。しかし戦争にしろテロにしろ、選択肢として賢いものとはいえない。(これで社会の年金問題に対する厚生省への批判が緩む可能性もある)
命を奪うまでしなくても「政治目標」を果たす方策は様々に考えられてしかるべきだろう。(死刑もまた「命を奪ってまで行う政治行動だ」という意味で視野の狭い政策といえる)

戦争−テロ−死刑 は、このような意味でリニアにつながっている。

1988年に「厚生年金保険制度回顧録」という本が出版されて、花沢武夫がおおよそ次のように言っていたそうだ。「どうせ支払は二十年先なんだから、集めた金なんかどんどん使っちまえばいいんだ、使ってしまってお金がなくなったら賦課方式にすればいい」「これだけのお金があったら天下り先は幾らでも用意できる」(参議院本会議 櫻井充質問 平成19年6月29日)

つまり、緊張感なく「国民をなめきっていた」わけだ。そのしっぺ返しとは言えるだろう。(もちろん、本来しっぺ返しを受けるなら、本人が受けるべきで、奥さんを襲うというのは稚拙に過ぎるだろう/本人であっても命まで奪いというのは誤りだとはすでに書いたが、念のため)

チラッと見たところでは「トカゲの尻尾切り」というような陰謀論も起きているし、逆に、厚生省の役人が悪いのではなく、政治の貧困だ。というような官僚擁護論も起きている。日本という社会を考えると後者が趨勢を占めかねない。ああ、なんと「良いヒト」が多い国/社会だろう。

高齢自殺者の年次推移(財団法人長寿科学振興財団)

内閣府は毎年「高齢社会白書」というものを出すことになっている。(毎年、年次更新するだけで、中身もペラペラの代物だが。ネットでもここで読むことができる。

ここにあるこの代物たちを、こうやってクエッて見ると、官僚というものの正体が垣間見える。

「(高齢者の)自殺」については良くて軽く触れてある程度、「自殺」という文言すら「火災死者数(放火自殺者を除く)」という毎年のテンプレートにあるばかりだ。

個人には「怨み」を持っても仕方のない事だ。ましてやそれを晴らしたとて。しかし、官僚機構に対する批判は緩めてはならない。また、これを「重く」受け止め、「緊張感」を持って業務を推進するのが本来の国民の僕たる職業人の務めだろう。「国民」の中には人殺しもいるのだ。

ノーパンしゃぶしゃぶ「楼蘭」 顧客名簿